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本部朝基の沖縄帰郷年

2009年、アメリカで武道雑誌を発行している、ある出版社から本部朝基の著書の英訳本を出す計画が進行していた。たしかそれに関してその出版社の某編集者と電子メールでやりとりする中で、彼から「1945年以前の那覇市の公文書(public records)に残っているものによると、本部朝基は1940年から同市に居住し、1944年に同市で死亡している」という主張を述べたメールを受け取ったことがあった。つまり、本部朝基は昭和15年(1940)以降、本土に戻ったことはないという主張である。

これまでの記事で見てきたように、昭和15年(1940)8月には東京で本部朝基翁後援会が結成され、昭和17年(1942)6月20日には鳥取高等農業学校(現・鳥取大学)の生徒たちと撮影した写真が残っている。では、これらはパラレルワールドでの出来事で、現実には存在しなかったのであろうか。

昭和17年6月20日、鳥取県鳥取市。

その編集者は那覇市に居住を証明する公文書が残っていると主張しているが、それが何なのかは書かず、筆者の返信にも無回答であった。戦前、居住を証明する公文書として、戸籍、土地台帳、寄留簿(現在の住民票に相当)等があったが、旧首里市、那覇市を含む沖縄本島のものは沖縄戦で尽く灰燼に帰した。筆者もこれまで那覇市役所や那覇地方法務局に問い合わせたことがあるが、そうした公文書は存在しないとの回答であった。

これらのうち、本部朝基の戸籍の謄本は、宗家(本部朝正)が昭和16年に首里市より大阪へ取り寄せたものを保管しているが、そこには本籍地(戸籍を作成した明治36年時点での居住地)が記載されているだけで、戦時中の住所は記載されていない。つまり、彼が言う居住を証明する公文書は何も残されていないのである。

その編集者を筆者に紹介したのはハワイの拳法術会のキモ・フェレイラ夫妻であったが、夫妻によると、彼は日本語ができないので、上記の公文書を――たとえ現存していたとしても――独自に入手することはありえないとの話であった。

結局、彼が言っている「公文書」とは、長嶺将真の英訳本の記述のことであろうということがわかった。その原書(日本語)には以下のように書かれている。

さらに昭和14年春に再度帰省されたが、折しも時局は支那事変から大東亜戦争へと戦火が拡大されていたので、「もう年も年だし、どうせ死ぬなら故郷に骨をうずめよう」などとおっしゃって、そのまま沖縄にとどまることになった。そして昭和19年8月、那覇市崇元寺町にあった筆者の拙宅の隣家、筆者の親戚にあたる長嶺家の借家で、74歳の大往生を遂げられた(1)。

なるほど、昭和14年(1939)春に帰郷して、それ以来一度も本土に戻らなかったなら、件の編集者の言う通りになる。しかし、以前述べたように、長嶺先生は戦争でそれまで収集した資料をすべて失い、戦後は主に記憶を頼りに本を書かれた。そのため、随所に間違いが見受けられるのである。たとえば、本部朝基が亡くなった月も8月ではなく4月である。

ちなみに、上記の「筆者の親戚にあたる長嶺家の借家で」亡くなったという記述が、英訳本では「筆者が本部先生のために借りてあげた家で亡くなった」と意味が変わっている。これだと、長嶺先生が本部朝基のためにわざわざ一軒家を借りてそこに住まわせ、生活の面倒もみていたと受け取れるが、そうした事実はない。

沖縄で本部朝基の生活の面倒を見ていたのは、本部朝勇の三男・朝俊である。その泊の崇元寺の借家の話は知らないが、もし事実だとしても、わざわざ一軒家を借りたのではなく、そこに朝俊一家が住んでいて、その一室で本部朝基の面倒も見ていたのであろう。物資が不足していた戦時中のことだから、それが精一杯だったはずである。

本部朝俊

どの分野の歴史研究にも言えるが、真剣に研究を志すならば、できるだけ原書に当たり、また死後の評伝ではなく、同時代の一次資料(史料)に当たるべきである。

1)長嶺将真『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』新人物往来社、1986年、149頁。

出典:
「本部朝基の沖縄帰郷年」(アメブロ、2021年10月11日)。note移行に際して一部加筆。

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