忘れ去られた唐手の達人達
先日、「本部朝勇のソーチン」の記事で、大正7(1918)年の琉球新報の新聞記事を紹介したところ、海外の空手家から問い合わせがあった。この記事で紹介されている「唐手の達人達」は、空手史に詳しい人たちの間でもあまり知られていないようである。そこで、今回は彼らについて簡単に紹介してみたい。
まず喜友名(きゆな)翁であるが、喜友名(方言でちゅんなー)のタンメー(翁)と呼ばれた喜友名親雲上のことである。大正時代、王家陵墓である玉陵の番人をしていた人で、松村宗棍の弟子と言われている。自らの流派は興さなかったが、弟子に宮平政英や島袋太郎等がいて、沖縄には彼らの流れを汲む道場がいくつかある。
知念翁は棒術の達人として名高い知念三良(ちねんさんら)のことである。「山の前」は今日では「山根(やまんにー)」の表記が一般的だが、これは屋号である。おそらく山(もしくは丘)の麓に住んでいたのであろう。沖縄の屋号は商号の意味ではなく、一種の代用名字である。昔の沖縄では名字をもたない平民は、名字の代わりに屋号を用いていた。
ウスメーはタンメー同様、おじいさんの意である。ウスメーは平民の老人に対して、タンメーは士族の老人に対して使われた。おそらく知念三良は平民出身だったが、廃藩置県以降、新たに「知念」の名字を持つようになったのであろう。それで山根と知念の両方で呼ばれていたわけである。
知念三良の棒術流派は山根流と呼ばれている。戦後は孫の知念正美が家元を務めていた。上原清吉の初期弟子の一人である武芸館の比嘉清徳も正美先生に師事した人であり、師範免許を授与されている。正美先生が出した師範免許はこれ一枚だったそうで、比嘉先生の武芸館が現在では山根流の嫡流となっている。
他にも屋比久孟伝、大城朝恕等が知念三良に師事しており、今日の沖縄の棒術の主流は知念三良の系統と言える。
屋部憲通は沖縄県師範学校の体育兼唐手の師範で、当時師範学校で唐手を指導していた。やはり自らは流派を興さなかったが、師範学校で屋部先生に師事した人の流派では、屋部先生の型が保存されているところがある。
本部朝勇については言わずもがななので説明は省略する。これらの唐手家たちは新聞記事のタイトルにもあるとおり、当時の沖縄では「唐手の達人」と目されていた。ちょうど糸洲安恒先生が亡くなった大正4年から3年後なので、彼らが当時の沖縄空手界の頂点に君臨していた唐手家たちであったといえよう。
年齢的には、彼らは今日の空手各流派の開祖となる人たちの先輩にあたる。また、今日の空手流派の開祖の中には、沖縄唐手研究倶楽部で彼らに師事した人もいる。
屋部憲通や本部朝勇は糸洲先生に師事していたが、同時に松村宗棍にも師事するなど糸洲以前の手(ティー)にも精通していた。いわば、古流空手と近代空手の架け橋になることができた人物である。
もし彼らがもう少し長生きしていたら空手の近代化は別の形で発展を遂げ、空手の歴史もいまとは変わったものになったかもしれない。しかし、残念ながら彼らは戦後急速に忘れ去られていった。
出典:
「忘れ去られた唐手の達人達」(アメブロ、2016年2月19日)。