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松村の弟子:喜友名親雲上

大正7年(1918)、本部朝勇は屋部憲通、喜友名親雲上キユナ ペーチン、知念三良(山根のウスメー)等とともに、沖縄県師範学校で唐手の型ショーチンを演武した。ショーチンはソーチンのことである。

このときの演武は、『琉球新報』で「唐手の達人達」と題して紹介された。糸洲安恒が亡くなってから3年後のことで、彼らが糸洲亡き後の、当時の沖縄の武術界の頂点に君臨する人々だったわけである。

ところで、上記4名のうち、喜友名親雲上だけ今日あまり知られていない。顔写真も筆者は見たことがない。「唐手の達人」と讃えられているにもかかわらず、すっかり忘れられた存在になってしまっているので、今回はこの喜友名親雲上について書いてみたい。

喜友名親雲上について、村上勝美氏が『空手道と琉球古武道』(成美堂出版、1976)で、以下のように書かれているのでそれを引用しよう。

●巨漢だった喜友名先生
松村先生の弟子の喜友名先生も、糸洲先生と同じく、当て身のたいへん強い方だったそうです。喜友名先生については、油谷山人こと島袋太郎先生が師事されましたので、油谷山人のお話を紹介します。私(油谷山人)は、尚家の墓番の喜友名翁のところで、商業学校1年の2学期の9月から、2年の1学期中まで指導を受けました。喜友名先生は、そのころ霊御殿(たまうどん)のまわりにたくさん生い茂っていた、直径7~8寸(約21~24cm)から1尺(約30cm)ぐらいの福地木(注)に古ぞうりをくくりつけて、当て身の鍛練をしていました。福地木がゆすられて葉が落ち、1つの福地木ばかり突くと、根がゆすられて枯れるので、木を適当にかえて突いていたそうです。からだが大きく、喜友名タンメが前に立つと、タンメの前にいる人が見えなかったそうです。喜友名タンメは、パッサイ、クーサンクーをやっていました。当て身が強く、また足刀の踏みこみが非常に強くて、相手が左でくるときは右で、相手が右でくるときは左で、相突きというやり方でした。私(油谷山人)のような、こがらな人間のできるやり方ではありませんでした。

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タンメ(タンメー)は、士族の老人に対する敬称で「翁」を意味する方言である。平民の老人に対してはウスメーと呼ぶ。山根流の知念三良が「山根のウスメー」と呼ばれたのは平民だったからである。それゆえ喜友名のタンメー、山根のウスメーはいずれも喜友名翁、山根翁という意味である。

王家陵墓、玉陵たまうどぅんの墓番は、向氏しょううじ(第二尚氏の分家)の者しか務められないという決まりがあった。それゆえ、喜友名親雲上も向氏の出身だったのであろう。向氏の名乗頭(名前の最初の1字)は「朝」なので、それゆえ、本名は「喜友名朝○」といったはずである。

『氏集』(琉球士族の姓一覧)には、向氏喜友名で9家が記載されているので、残念ながら喜友名親雲上がどの家系か特定するのはむずかしい。ただいずれも小禄御殿(廃嫡された浦添王子朝満の血筋)の分家なので、小禄御殿の門中の出身だったと思われる。

ところで、上記引用中にある「相突き」とは何であろうか。おそらく本部流で「突き受け」と呼んでいる技法のことと思われる。

この「突き受け」は、本部御殿手でも用いる。(ただし主に外側から貫手で)。本部流以外では今日一般には見ない技であるが、喜友名親雲上が得意としていたのなら、古流空手にあった技だったのであろう。

本部御殿手の突き受け

以前の記事で紹介した「掛け手」の技法もそうだが、本部流にしかないと思われる技も調べてみると、実際はかつては他の空手家も実践していた技だったことが明らかになることがある。つまり、それは古流空手にあった技だが明治以降の空手の近代化の過程で一般には失伝しまったということである。

注 フクギ(福木)のことと思われる。


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