沖縄と本土の引き手の違い
昭和40(1965)年頃の話である。本土の全日本学生空手道連盟の選手一行が第一回沖縄遠征団として来沖した。沖縄がまだ本土に復帰する(1972)前の話である。
この沖縄遠征団が沖縄で是非組手の交流試合を行いたいということで、受けて立ったのが当時の琉球大学の空手部だった。
当時、沖縄では組手の稽古自体まだ珍しい時代で、大半の道場では昔ながらの型中心の稽古が行われていた。組手を熱心に行う流派といえば、沖縄拳法や一心流、本部流などごく一部の流派に過ぎなかった。
さて、この時の沖縄側の主力メンバーはと言えば、当時上原清吉の門下生だった翁長武十四氏、そして空手部には所属していなかったが、応援に呼ばれた比嘉清徳先生の子息の比嘉清彦先生らであった。
試合の結果は、翁長氏や清彦先生らが善戦したが本土の沖縄遠征団の勝利という結果に終わった。
筆者は以前清彦先生にこの時の様子を尋ねたことがあった。この試合は、当時の本土側のルールで行われたそうだが、沖縄側の選手が明らかに有効打を入れても、突いた後引き手を取らなかったとして、一本を取ってくれなかったそうである。
当時の沖縄にはそういう考えはなかったので、それで試合では終始優勢だったが、結果的に本土側のルールに負けたという形になった。
どうして引き手に関して、このような解釈の違いが本土と沖縄で生まれたのであろうか。いまは沖縄でも本土の競技空手が浸透してきているので、当時とは違ってきているのかもしれないが、昭和40年の時点ではこのような認識の差があったのである。
そもそも沖縄古来の組手における引き手の考えはどういうものだったのであろうか。
以下は『本部朝基先生・語録』の著者の中田瑞彦氏が本部朝基に引き手について質問したときのやりとりである。
引用にあるように、本部拳法では夫婦手が基本の構えなので、もし引くとしたら、相手の反撃を考慮して、前手突きなら最初の前手の位置、後手突き(逆突き)なら脇ではなく、やはり最初の前手に添える形に戻して、身体正面をガードする。
あるいは相手にそもそも反撃させないように、掴み手にして相手の追撃を未然に防ぐようにする。いずれにしろ、一律に脇へ戻すという考えは本部朝基にはない。
本部朝基は若年の頃より松村宗棍、佐久真親雲上、松茂良興作といった諸先生方と組手稽古をしていたので、これが古来からの正統な引き手の解釈であろう。
また、本部御殿手ではそもそも逆突き自体稀であるし、前手突きも本部拳法同様、もし戻すとすればやはり最初夫婦手の位置に戻すだけであるから、引き手を取るという発想はない。
本土の組手は、沖縄出身の空手家の多くが(ほとんど)組手を教えなかったため、大学の学生やその卒業生たちが中心となって発展させてきた経緯がある。おそらくその過程で上述の「引き手の独自の解釈」が生まれたのであろう。
しかし、それは型の動作をそのまま組手に適用したもので、沖縄古来の引き手とは無関係であった。その結果、本部朝基の言う「形の表に出たことを、そのまま唐手だと思ったら大間違い」ということになってしまった。
ちなみにこのときの遠征団の副団長は、この試合のあと、上原清吉に挑戦して敗れてのちに弟子入りするのだが、その後もさまざまな問題を引き起こすことになる。また機会があれば、この人物の話もするかもしれない。
出典:
「沖縄と本土の引き手の違い」(アメブロ、2017年1月23日)。