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本部朝基のハワイ訪問(3)
前回の記事では、初期のハワイ移民団の中に、金城亀(里太郎)や金城珍善といった唐手(空手)の修業者がいたことを紹介した。また、ハワイ移民の安座間栄正(太郎)のように、日本へ一時帰国して本部朝基から唐手を学んだと推測される事例が、当時の手紙や写真から確認できることについても触れた。
それゆえ、唐手の初期の海外伝播には以下のような経路が考えられる。
(1)沖縄系移民が現地で稽古を続けたり、教えたりした事例。
(2)日本の唐手家が現地を訪れて実技指導や講演を行った事例。
(3)移民が一時帰国して唐手を習い、現地に戻って伝えた事例。
(1)や(2)の事例があったことは従来も知られていたが、(3)の事例はこれまで注目されてこなかった。したがって、安座間の事例は、唐手の海外伝播の研究に新たな視座をもたらすものといえる。
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アメリカには、ケンポー(Kempo)と呼ばれる、空手とは異なる格闘技が存在する。日本語の「拳法」に由来するが、その意味は異なる。初期には「ケンポー・カラテ」とも呼ばれ、空手に中国武術、柔術、ボクシングなどの他武術を組み合わせた武術で、ハワイに起源をもつ。型よりも対人稽古を重視する点が特徴で、しばしば黒色の道着を着用する。
ケンポーの初期の修業者の中には、本部朝基との関係を主張する者もおり、その中にはジェームズ・ミトセのように本部朝基や東恩納亀助の写真を著書に掲載した者もいた。また、ミトセはーー彼自身か彼の弟子によるものかは不明だがーー本部朝基の「甥」だったと主張されることもあった。もちろんミトセは甥ではないが、彼がホノルル唐手青年会の会員であった、あるいはその会員を通じて唐手を学んだ可能性はある。
西村秀三氏によれば、ハワイには本部朝基著『私の唐手術』(昭和7年)の原本が伝わっており、その見返しには「玉那覇長松」の押印があるという。どうやら本部朝基がハワイを訪れた際に持参したもののようである。
玉那覇は、当時のハワイの邦字新聞で本部朝基の招聘者として報じられているが、朝基との関係は不明である。おそらくハワイの沖縄県人社会の有力者で、招聘費用の出資者だったと推測される。
ジェームズ・ミトセの著書『What is Self Defense』(1953)には、本部朝基の写真のほか、『私の唐手術』掲載の写真と同じポーズを再現した写真が掲載されている。
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またミトセの本には、十二本組手に似た組手も紹介されている。
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両者を比較すると、ミトセの写真には夫婦手の構えや、「受け手がそのまま攻め手に変化する」といった本部朝基の組手原理が反映していることがわかる。
しかし、十二組手にある掴み手は含まれていないので、朝基の本の写真をそのまま模倣したわけではなさそうである。
あるいは、ミトセは東恩納亀助、陸奥瑞穂、安座間栄正、またはホノルル唐手青年会の他の関係者から、組手を直接「実技」として教わった可能性も考えられる。
なお、陸奥(旧姓高田)は、三木ニ三郎との共著『拳法概説』(昭和5)で本部朝基の組手の写真を模倣したイラストを掲載していたことは以前紹介したとおりである。
船越義珍が昭和4年(1929)12月に東京帝国大学唐手研究会の師範を辞任した後、陸奥は事実上、唐手研究会の師範に就任した。また、おそらく出稽古弟子のような形で、本部朝基にもその頃から師事するようになったと考えられる。
陸奥と東恩納亀助が、いつ、どこで出会ったかは不明である。彼らは当時唐手の競技化や大学間の唐手連盟を結成するような活動もしていた。
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これらの事例を総合すると、本部朝基や、その弟子である東恩納亀助、陸奥瑞穂らが、直接・間接にその後のハワイの武術界に影響を及ぼしたことは明らかである。
特に、朝基の著書『私の唐手術』原本がハワイに遺されていた事実、ミトセの著書に『私の唐手術』の写真が掲載されている点、さらにそこに掲載された組手写真に朝基の組手原理が反映されている点を考慮すると、のちのアメリカの「ケンポー」の発展過程において、朝基の技法が一定の影響を及ぼしたと言うことができるであろう。