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本部朝基と鳥取高等農業学校

本部朝基の晩年の軌跡、とりわけ戦争中のことについては、記録に乏しくほとんど知られていない。僅かながら語っている方もいるが、記憶違いや思い込みが見られ、資料に基づく調査はこれまでなされてこなかった。

前回の記事で述べたように、本部朝基は昭和16年(1941)秋、経営の苦しかった東京の道場を閉鎖して大阪に戻った。そこで、妻ナビ、二男(戸籍上は長男)朝礎、三男の宗家(朝正)と4人で暮らしていた。妻は働きに出ていたし、朝礎(当時26歳)も働いていたので、贅沢はできなかったが経済的な心配はなかった。

空手は息子たちに指導する以外は、新たに弟子は取らなかった。ときどき教えてほしいと訪ねてくる人はいたが、すべて断っていた。体調もよくなかった。胃の病気を患っていてやせ衰え、以前のような雄偉な体格ではなくなっていた。空手は体格も重要だと本部朝基は考えていたから、技は衰えていなくても十分な自信をもって指導できないと考えていたのかもしれない。

しかし、昭和17年(1942)になって、かつて鉄道省唐手部で教えた弟子の松森正躬(1907-1974)より、指導の依頼が舞い込む。すでに戦争中であり、どういう意図で招聘したのか不明だが、本部朝基は病身を押して鳥取まで出かけて最後の唐手指導を行った。

上の写真はそのときのものであり、裏には「昭和十七年六月廿日寫(本部朝基先生送別のため)」と手書きで書かれている。一緒に写っているのは、本部朝基の左隣が松森氏とその息子、ほかは鳥取高等農業学校の生徒たちである。

松森氏とこの生徒たちの関係はよくわからない。東京にいた頃は鉄道省勤務であったから、鳥取で教師をしていたわけではないと思うが、何らかのつながりがあったのであろう。本部朝基が学校の生徒たちに教えたのは、彼等が最後であった。

1ヶ月ほど指導して6月20日に上記の写真を撮影したあと鳥取を出発し、ふたたび大阪に戻った。そのあと、いつ沖縄に戻ったかは宗家ももうよく覚えていないが、おそらくその夏か秋であったのであろう。

出典:
「本部朝基と鳥取高等農業学校」(アメブロ、2021年10月10日)


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