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本部朝基のハワイ訪問(1)
昭和7年(1932)、本部朝基は招聘を受けて唐手(空手)の教授のためにハワイへ渡った。ただ残念ながら入国が認められず、しばらくの間入管施設に留め置かれた後、帰国した。
この件について、以前沖縄県空手振興課の職員の方の来訪を受けた際、宗家(本部朝正)が所蔵する当時の手紙や写真等の資料をお渡ししたことがある。それゆえ、沖縄県のほうからそのうち何らかの形で調査報告書が出されるかもしれないが、担当者が変わってこの件が沙汰止みになった可能性も考えられる。
ほかにも以前から本部朝基のハワイ訪問について幾度か質問を受けてきたので、いま筆者が知りうる範囲で推測も交えて簡潔に説明したいと思う。
まず本部朝基の招聘を主導したのは屋部憲通に唐手を教授されたハワイの沖縄出身の若手唐手家たちだったのではないかと考えている。具体的な人名としては、安座間太郎(沖:樽)や宮城繁(英:トーマス・シゲル・ミヤシロ)たちである。
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上の写真は、本部朝基の弟子の東恩納亀助(戦後・寛に改名)がハワイを訪れた際に写したものである。彼らは同年、ハワイ唐手青年会という組織を結成した。下の写真は屋部憲通のハワイ訪問時のものである。
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ハワイ空手博物館のチャールズ・グディン氏によると、屋部先生といっしょに写っている写真の右端の腕を組んでいる人物が安座間太郎ではないかとのことであった。
『布哇報知』1927年7月2日記事に、屋部先生の指導のもと当地で開催された「沖縄唐手大会」のプログラムが掲載されているが、その中に公相君を演じた安座間太郎の名前が載っている。したがって、安座間氏が屋部先生に師事したのは間違いない。
なお、この新聞記事については『月刊秘伝』2024年11月号に、ドイツの空手家・ヤニック・シュルツェ先生が詳しい記事を書かれているのでそちらも参照されたい。
以前紹介したように、屋部先生はハワイでの講演で唐手は攻防を兼備した完全な護身用武術であり、その実例として本部朝基が京都で外国人ボクサーを倒した逸話を紹介していた。
屋部先生から本部朝基の逸話を聞いたハワイの青年たちは、次は本部朝基を招聘して唐手を直接習いたいという思いを募らせたのではないであろうか。その場合、屋部先生に仲介してもらって本部朝基と連絡を取り合った可能性も考えられる。
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上の写真は宗家が所蔵する本部朝基の写真で、グディン氏によると、左が安座間太郎だという。
この写真の撮影時期や場所は正確にはわからないが、場所はおそらく東京、時期は昭和9年頃と思われる。この頃安座間氏は一時帰国して東京の本部朝基を訪問していたことが当時の手紙からうかがえる。帰国目的は不明であるが、ハワイで直接師事できなかったので、東京で本部朝基から唐手を習おうと考えていたのかもしれない。
グディン氏によると、安座間氏は戦前に沖縄に戻り戦争中に亡くなったのではないかとのことであった。