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ピンアンと兵式体操

兵式体操というのは、明治時代に師範学校で行われた軍事訓練のことである。のちに教練と改称された。その中核は西洋式の徒手体操であるが、体育(鉄棒、跳び箱等)や銃の取り扱い方なども教えたようである。屋部憲通はこの兵式体操を教える専任の教官として沖縄県師範学校に赴任していた。空手書籍で「軍事並びに体育教官」として紹介されたりするのはこのためである。決して唐手を教えるために採用されたわけではなかった。

兵式体操の徒手体操であるが、これは今日のラジオ体操のような軍隊式の柔軟体操である。もともと体操というものは日本になかった。西洋から輸入されたもので、起源はドイツ体操やスウェーデン体操である。このうち、ドイツ体操(Turnen)がアメリカに伝わり、さらにアメリカのアマースト大学よりリーランドが日本に招聘されて、日本の体操の元となった。

さて、本部流のブログ(アメブロ)をときどき翻訳してくださっているドイツのアンドレアス・クヴァスト先生がピンアン兵式体操の関連性について記事(リンク切れ)を書かれていて大変興味深い。以下の写真はアマースト大学のドイツ式体操の写真である。

一見すると、ピンアン初段の上段諸手受けに似ている。糸洲安恒は兵式体操をもとにピンアンを作ったのであろうか? 兵式体操の動画はないが、現在の自衛隊体操にも似た動作があるのを筆者は見つけた。

この自衛隊体操も、その起源は兵式体操に遡るであろうから、似たような動作が屋部先生が教えていた兵式体操にあって、それを糸洲先生が毎週師範学校で見ていてピンアンに採り入れたのであろうか。

もちろんこれは憶測に過ぎないが、ただ糸洲先生がピンアンを創作するにあたって、個別の動作は別にしても体操の理念を採り入れた可能性は考えられる。実は、明治時代に武術を学校の正科に採用するよう働きかけがあったが、文部省は不可とした。その理由は以下の通りである。

 二術の利とする方(二術とは剣術と柔術のこと:引用者(池田拓人)註)
   (一)身体の発育を助く
   (二)長く体動に堪ふる力量を得しむ
   (三)精神を壮快にし志気を作興す
   (四)柔惰の風恣を去りて剛壮の姿格を納めしむ
   (五)不慮の危難に際して護身の基を得しむ
  害若しくは不便とする方
   (一)身体の発育往々平均均一を失はん
   (二)実修の際多少危険あり
   (三)身体の運動強度を得しむこと難く強壮者脆弱者共に過劇に失し易し
   (四)精神激し易く輙すれば粗暴の気風を養うべく
   (五)争闘の念志を盛にし徒らに勝を制せんとの風を成しやすし
   (六)競進に似て却て非なる勝負の心を養ひがちなり
   (七)演習上毎人に監督を要し一級全体一斉に授けがたし
   (八)教場の坪数を要すること甚大なり
   (九)柔術の演習は単に稽古着を要するのみなれども剣術は更に稽古道具を要し且常に
      其衣類及道具を清潔に保つこと生徒の業には容易ならず

池田拓人「嘉納治五郎による柔道教材化の試み ―『体操ノ形』を中心として―」より引用

上記は体操と剣術、柔術との比較であるが、要するに武術は「危険」、「闘争心を助長する」、「均一な身体の発育に不適当」、「集団教授に不向き」、「場所を取る」、「特別な稽古道具が必要」と見なされた。

このうち、稽古道具や場所は唐手の場合、クリアできるが、危険や闘争心の助長の批判は避けがたい。おそらく糸洲先生はピンアンを創作するにあたって、屋部先生や花城長茂先生とも相談しながら、どうすれば文部省や沖縄県学務課の批判をかわすことができるかと相談したかもしれない。

たとえば、ピンアン二段(松濤館では平安初段)では上げ受けを三回繰り返しながら前進していく箇所がある。本部流には白熊というピンアン二段に似た型があって、これがピンアンの原型チャンナンではないかという説もあるが、この箇所は突き受け気味に、角度の浅い横受けをしながら前進していく。

白熊。演武:高野清、安間忠明。『本部流唐手術』(クエスト)より。

かりに白熊がチャンナンなら、糸洲先生は攻防一体の突き受けから学校用には純粋な防御技である上げ受けに改変したのであろうか。

出典:
「ピンアンと兵式体操」(アメブロ、2019年4月29日)。note移行に際して改稿。

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