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免許皆伝と師範免許

今日(2016年4月17日)、海外の空手家から松村宗棍先生が示現流の「免許皆伝」をもらったのか、質問があったので調べてみた。

本部朝基『私の唐手術』(昭和7年)に、松村先生は「剣術の指南を薩摩の有名な剣客伊集院氏より受け、其の奥義を究めたといふ」という一文があるが(注)、免許皆伝についての言及はない。

長嶺将真先生の『史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝』(新人物往来社、昭和61年)に、戦前長嶺先生が松村先生の後裔宅を訪れた話が書かれている。そのとき、松村先生が授けられたという示現流の奥義書一巻と色紙一葉を拝見したそうだが、巻物は腐蝕が激しくほどんど読めなかったという。

この巻物が「免許皆伝」だった可能性もありうるが、長嶺先生はそのようなことは書いていない。かろうじて読めた部分には「剣の構……一本釣竿を持つ気持ちにて候」と書かれていた。

また色紙には、

面影を見るに名残りの増する哉
  君は帰国をなすと思へば

        伊集院矢七郎

松村親雲上 殿

と書かれていた。松村先生が帰国するのを名残惜しんだ文言である。両者の深い友情を思わせるものだが、この色紙は免許皆伝書ではない。それゆえ、厳密な意味での免許皆伝書は、松村先生はもらってはいないのではないだろうか。示現流の奥義を究めた、という部分が拡大解釈されて、免許皆伝を得た、と後世に語り継がれたように思う。

話は変わるが、上原清吉先生の没後に、上原先生から免許皆伝をもらったと自称する人が出現したが、そういう事実はない。多聞館のブログにも書かれているが、この人がもらったのは「師範免許」である。

写真:本部朝正宛師範免許、昭和62年

師範免許は支部道場の開設許可証だが、どういうわけかそれを拡大解釈して「免許皆伝をもらった」と吹聴していたようである。本部御殿手では師範は免許制度になっていて、上原先生が生前出した師範免許は5名だけであったが、この人物はその内の一人だった。

沖縄の弟子で師範免許が授与されたのはこの人一人だけだったので、それは確かに名誉なことではある。他の弟子の中には喉から手が出るほどほしがった人もいたが、上原先生は頑なに師範免許=道場開設許可は出そうとしなかった。

上原先生は、自分の弟子が道場を開設して稽古に来なくなると、御殿手の技が変質すると警戒していたので、流派の拡大よりも技の純粋な継承を望まれていたからである。

没後にこういう僭称が起こらないように、上原先生はわざわざ遺言の録音テープまで残して信頼できる弟子にそれを託したのだが、案の定、こういう騒動が起こったことは残念である。


注:本部朝基『私の唐手術』85頁。

出典:
「免許皆伝と師範免許」(アメブロ、2016年4月17日)。

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