糸洲安恒の住居
糸洲安恒の住居について、空手史研究者の金城裕は『唐手から空手へ』(2011)で、以下のように述べている。
石嶺町は、昔は首里ではなく、隣接する西原町(旧・西原間切)に属していた。ここに御殿山と呼ばれる小高い丘があって、そこに伊江御殿墓があった。伊江御殿は第二尚氏王統第4代、尚清王(在位1527年 - 1555)の七男を祖とする琉球王族で、琉球王国滅亡後は、男爵になった家柄である。本部朝基の母は伊江御殿の出身であった。
上記引用によると、糸洲先生の住まいはこのお墓の中にあったと書かれている。お墓に住まいがあった? 不思議に思われる方もいるかもしれないが、伊江御殿墓は王族の墓なので、もともとの敷地は2000坪(6612㎡)くらいはあったはずである。それゆえ、その敷地の中に糸洲先生の住まいがあっても不思議ではない。
琉球王国時代、王族墓である御殿墓には、墓守(御墓番)の家が付属していた。お墓を泥棒から守るためである。下の写真は浦添御殿の墓と墓守の家の写真である。
2019年9月、糸洲安恒を研究するドイツのトーマス・フェルトマン(Thomas Feldmann)氏が来訪された。フェルトマン氏から伊江御殿墓について質問があったので、私は彼にその場所を教えた。その後、フェルトマン氏はこのお墓を訪ねたそうである。そのときの動画がFacebookにアップロードされているので、フェルトマン氏の許可を得て、下に紹介する。
ところで、本部朝基も、糸洲先生の住居に関して、仲宗根源和編『空手研究』(1934)のインタビューで語っている。しかし、彼によると、糸洲先生は、伊江御殿墓ではなく、伊江男爵別荘に住んでいた。いずれが正しいのであろうか?
別荘(ハルヤー)とは現在の伊江御殿別邸のことである。実は伊江御殿の別邸とお墓は昔は隣接していた。下は明治時代(1868-1912)末期の石嶺町の地図である。
ピンク:伊江御殿別邸
青:伊江御殿墓
緑:伊江御殿所有の畑
上記のピンク、青、緑の箇所はすべて伊江御殿の所有地であった。糸洲先生は、おそらくこの広大な敷地のどこかに住みながら、伊江御殿の別荘とお墓を管理していたに違いない。
実は別荘の敷地の北西に「番人」と書かれた家がある。
この家がおそらく糸洲先生の住居だったのではないであろうか。下の写真は、現在の伊江御殿別邸の同場所にある住居の写真である。
ここは現在は伊江記念館になっている。知花朝信先生や摩文仁賢和先生も、ここに通われて空手の稽古をしていたにちがいない。したがって、この場所は、沖縄県師範学校や旧制沖縄県中学校の跡地と並んで、「近代空手発祥の地」の一つであるとも言えるであろう。
出典:
「糸洲安恒の住居」(アメブロ、2019年10月27日)。
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