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本部朝勇の本当の生没年

上原清吉は本部朝勇の生没年は正確には知らなかった。昔は師匠の年齢を質問したりはしないし、大正15年(1926)にフィリピンへ移住したので、その後の朝勇先生の消息も詳しくはわからなかった。ただ移住後まもなく、朝勇先生からの手紙が来なくなったので、上原先生もなんとなく覚悟はしていた。そして、戦後沖縄に戻ってから、孫の本部朝達氏より昭和2年(1927)に70歳くらいで亡くなったと知らされた。それで、逆算して、本部朝勇の生年を1857年とし、流派の出版物では従来そのように書いてきた。

本部朝勇

ただ没年に関しては、筆者が10年以上前、朝勇先生の長男、本部朝明の除籍謄本を調べて、昭和3年(1928)3月21日に亡くなったことが判明した。戦前の旧民法には「家督相続」の制度があり、前戸主の死亡年月日と、現戸主の家督相続の届け出日を戸籍に記載しなければならず、その記録が朝明氏が亡くなった大阪府貝塚市に保管されていた除籍謄本に記載されていた。

しかし、朝勇先生の生年に関しては、本部御殿の家譜が戦争で失われたこともありわからなかった。沖縄の戸籍も戦争でほぼ焼失したので、調べるのは不可能に近いと思っていた。

ところが、最近、外務省に朝勇先生の旅券、すなわちパスポートの情報が記録として残っていることを知った(注)。

旅券番号 125341号
氏名 本部朝勇
身分 戸主
本籍地 首里区儀保724
年齢 慶応元年5月2日生
旅行地名 清国旅行
目的 商業
下付月日 10月5日

慶応元年は1865年である。つまり、従来の1857年よりも、朝勇先生は8年生まれがあとだったことになる。また、本部朝基(1870年生)とは5歳違いだったことがわかる。

以前から、兄弟で13歳差は少し年が離れすぎているのではないかと思っていた。それで、母親が違うのかもしれないと考えたこともあった。昔の各御殿の家譜を読むと、当主が後妻をもらったり妾妃をもつことは珍しいことではなかった。しかし、5歳差なら同じ母親から生まれた兄弟とみなしてよいであろう。

いずれにしろ、朝勇先生の生没年が正確に判明したことは大変喜ばしい。なにしろ、上原先生が存命の頃は、「本部朝勇は実在しない」と平然という人が沖縄空手界にはいたからである。大正7年の琉球新報の記事には「唐手の達人」の一人として紹介されているにも関わらず、没後は本部朝勇の存在は沖縄では急速に忘れられてしまった。

ところで、上記のパスポートは明治43年(1910)年に発行されている。すなわち、その年に朝勇先生は中国へ渡っているわけである。このことについては、また次回の記事で考察してみたいと思う。


注 財団法人沖縄県文化振興会公文書館管理部史料編集室『沖縄県史 資料編8 近代2 自由移民名簿 自一九〇八(明治四十一)年 至一九二十(大正九)年』沖縄県教育委員会, 1999年、767頁。

出典:
「本部朝勇の本当の生没年」(アメブロ、2021年4月24日)。


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