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琉球士族と刀
下の広告は、明治33(1900)年10月29日の琉球新報に掲載されたものである。内容は具志川朝及が刀3口を売却するために出した広告である。
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一部字がかすれているが、文言は以下の通りである。
一 清光 大刀
一 波平行安 小刀
一 長船ノ清光 中刀
右売却ス 御望ノ御方ハ御来訪相成度
首里区字儀保百拾六番地内
明治三十三年十月 具志川朝及
四方諸君
刀の銘からこれらが日本刀であることがわかる。筆者は刀工については詳しくないが、清光は加州清光、波平行安は薩摩の刀工、長船ノ清光は備前の長船派の清光であろう。清光を名乗る刀工は数代いるらしい。
いずれも著名な刀工による刀であり、おそらく廃藩後の不如意のため、売りに出されたのであろう。広告主の具志川朝及は、当時の向氏具志川殿内(総地頭家)の当主で、「琉球随一の武人」と謳われた18世紀の空手家・具志川親方(宜野湾親方朝雅)の直系子孫である。
具志川親方は剣術の名人としても知られていたので、ひょっとするとこれらの刀は具志川親方からの伝来品かもしれない。
本部御殿にも刀剣類はあって、上原清吉も本部朝勇から長刀や槍、小刀を見せてもらったそうだが、このように沖縄には御殿殿内と呼ばれた上級士族を中心として、刀剣類は薩摩服属以降も所持されていた。
残念ながら、こうした事実は琉球で「禁武政策」が行われたという誤ったイメージが流布したために、空手研究者の間でも長らく受け入れられてこなかった。また、琉球には日本の武器が伝来しただけでなく、『阿嘉直識遺言書』に見るように、示現流などの日本武術も実際に稽古されていた。
これらの刀はその後どのような運命をたどったのであろうか。沖縄にあれば戦争でまず被害は免れ得なかったであろう。もし本土に渡っていれば、まだどこかに存在しているかもしれない。
出典:
「琉球士族と刀」(アメブロ、2016年5月29日)。