小城按司と伊野波按司
これまでアメブロやnoteで何度も紹介してきた義村朝義は、義村御殿の次男であった。ところで、彼の長兄は、小城按司朝真(1863 - 1906) と言い、名字(家名)は「義村」ではなく「小城」といった。義村御殿の家譜に以下の記述がある。
「四世明良」とは、義村御殿の4世、唐名・向明良という意味である。そして、大和名が小城按司になる。
童名は真山戸金、名乗は朝真。
童名の「真……金」は、それぞれ接頭美称、接辞美称で、本来の童名の山戸に王族の場合付くのである。士族なら真山戸になる。
名乗は日本の武士の下の名前がそうで、日本から入ってきたものである。たとえば、源義経の名乗は「義経」である。
琉球士族は基本的に、唐名(中国風の名)、大和名(日本風の名)、童名(幼名に限らずしばしば普段の通称)の3つをもっていた。庶民は童名しかもっていなかったが、名字の代わりに屋号というものがあった。
なぜ義村ではなく小城が名字なのであろうか? 実は義村は厳密には名字ではなく、領地名からくる称号で正式には「義村按司」として国王から賜るものであった。そして、義村按司という称号をもつ者は同じ時代に一人しかいない。
たとえば、島津家久を薩摩守家久と呼ぶようなものである。
按司の長男は元服とともに按司の称号を賜るのだが、父親と同じ義村按司を名乗ることはできない。それで、別の称号を国王から賜るのである。
小城というのは、義村御殿が治めた東風平間切にあった一村である。現在の八重瀬町の小城地区に相当する。
通常、御殿の長男の称号はその領地の中心的な村名から採用された。ちなみに小城按司を名乗っても、別にその村を直接統治するわけではない。いわば、名目上の領主ということである。
したがって、義村按司の長男は自身が家督を継ぐまでは小城按司と称したのである。
しかし、明治12年(1879)に琉球王国(藩)が廃されて沖縄県が設置されると、小城按司朝真は義村朝真に名を改めたのである。
実は、本部朝勇も、琉球王国時代は、伊野波按司朝勇と言った。伊野波は、本部間切にあった一村である。廃藩置県後、彼もまた本部朝勇に改めた。
参考文献:
那覇市企画部市史編集室 編『那覇市史』資料篇 第1巻の7 (家譜資料 3 首里系)、那覇市企画部市史編集室、1982年。
出典:
「小城按司と伊野波按司」(アメブロ、2020年3月11日)。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?