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棒術の宗家、添石殿内

船越義珍の『空手道一路』(昭和31)に以下の文章がある。少し長いが引用する。

私がまだ小学校の準訓導時代のことであった。
その頃、私は那覇の小学校に転任してきたばかりであり、まだ、妻を首里の実家に預けたままだったので、私もそこから小一里の道を学校まで通っていた。
その日は職員会議でおそくなり、折あしく小雨になったので、人力車を雇った。
那覇から真和志というところの境に崇元寺というお寺があるが、ここまでは相当の距離なので、この辺からよく客と車夫とは退屈しのぎに世間話をはじめる。
私も何かと話しかけてみると、幌(ほろ)が被っているから姿格好はよくわからないが、言葉つきは首里訛りだし、しかも士族言葉である。そして聞き覚えのある声だった。
私もそう荒っぽい喋り方をする方ではないが、この車夫の喋りようもなかなか丁寧で、その上、言葉数も少ない。
(どうもおかしい……)
私は気になってしようがないので、
「車屋さん、ちょっと、用便を……」
断って車を止めて貰った。見ると、背丈はあるが鶴のように痩せたその車夫はまんじゅう笠を斜めに、まるで顔をかくすようにして私の降りるのを待っている。
だが、車の梶棒を押さえる格好は、ただの車夫ではない。私は車を降りる瞬間に彼の顔を見ようとしたが、その身のこなしの素早いこと、どうしても私にはわからない。
(中略)
そこで私は一計を案じた。
「大分長らく車に乗っていたので疲れました。この坂道を歩いてみましょう」
そういって、車夫と並んで歩くつもりだった。そうすれば、いつかは彼の油断する隙もあろうか、と思ったのである。
それに、その坂道は車夫一人ではなかなかつらい坂道だった。だから昼間などは後押しを職業にする人がいたものだった。
歩きながら、私はまた、世間話をしてみた。ところが、車夫はどうしても私と並んで歩かないのである。二、三歩後退してついてくる。
その内に、兵隊塚という道がカーブするところまで来たので、私は、つッと後へ戻って車の梶棒を掴えると、サッと笠の下の顔を窺き込もうとした。
ところが、それよりも、車夫が笠へ右手をあてて深々と顔をかくした方が早かった。
(中略)
私は声を呑んだ。咄嗟にあることに気づいて、すぐさま、脱帽すると、
「失礼ですが、あなたは末吉さんではございませんでしょうか」
下から伺うようにして、訊いてみた。一瞬、相手はハッとして立止まったが、
「いえ、左様な者ではございません」
まだ否定する。私は梶棒を押えた。車夫も立ち止まった、もちろん、笠で顔をかくしたままだ。
と、遂に決心したのか、私に梶棒を握らせたまま、フッと立膝をして顔を伏せた。
「やっぱり――」
私の方からは髷しか見えなかったが、たしかに末吉さんに違いなかった。私は慌てて手をとって、
「船越でございます。知らないこととはいいながら、大変御無礼を致しました。しかし、どういうわけでこうして車夫などをおやりになっていらっしゃるんですか――」
こんどは、私の方が立膝をついた。
この人は、旧藩家に仕えた上級の武士で、空手道でも私の先輩だった。そして後年棒術の宗家(末吉の棍)となった方である。それだけに、私に見られてしまったことが、よほどこたえられたらしく、
「面目ないが、今日のことはなにとぞ他言をお許し願いたい――」
ただ、そう繰り返すだけである。
私はもう車に乗るわけにはいかない。二人は首里までの間、人力車を真ん中に挟んで空手道、棒術のことなどいろいろと話をして歩いた。この人は、清貧の中にしかも病妻を抱えられ、昼は百姓をし夜はこうして車夫になって、生活と闘っておられたのであった(注1)。

末吉(すえよし)は添石(そえいし)の誤記である。どちらも沖縄方言で「シーシ」と発音するので、船越先生は勘違いしたのであろう。添石家は、5大名門の一つ、馬氏小禄殿内おろくどぅんちの分家(支流)である。廃藩時には、中城間切なかぐすくまぎり添石村を領地とする脇地頭の地位にあった。領地持ちの、いわゆる上級士族で「殿内とぅんち」の敬称を付けて、添石殿内(そえいしどぅんち)と呼ばれた。この添石殿内の歴代当主は、世襲で琉球国王の棒術の指南役を務めたとされる。多和田眞淳「琉球の武術」(1973)に、以下の一文がある。

添石の棍(趙氏の棍と周氏の棍の二つからなっている)は琉球王の武術指南である添石家に傳わったもので、王と添石家の長男以外には教えないという門外不出の秘傳である。歴代王の心身を錬えるために冊封使の残した秘傳といわれる(注2)。

琉球国王と武術」の記事で、筆者は松村宗棍や鉄拳宮城は、近習として国王の武術指南役を務めたのであろうと述べたが、近習は王府の正式な役職であり、これを特定の家柄が代々世襲するというのは考えにくい。王府内の出世は、基本的には実力主義だったからである。もちろん三司官などは特定の家柄に限定はされていたが。

それゆえ、国王の武術指南役として一代限りで近習や守役に就く者がいた一方、添石家のように世襲で武術を指南する私的な役職があったのであろう。

馬氏添石殿内の墓、那覇市。筆者撮影。

本部御殿もそうだが、このように沖縄には代々武術を世襲する家柄があった。筆者が宗家や沖縄の門中の方から聞いた話では、本部朝基の祖父の本部按司朝章は、国王3代の武術指南役を務めたそうである。

ところで、船越先生が出会った添石(末吉)氏は誰だったのであろうか。

上の写真は、明治17年に明治政府が作成した文書(注3)における中城間切の旧領主一覧の頁であるが、そこに「添石良術」という人物が記載されている。それゆえ、船越先生の会った人物は、この添石良術か彼の息子だったのであろう。

多和田眞淳によると、添石家の棒術は中国の冊封使が伝えたものだったという。すると、趙氏や周氏は、冊封使節の武官の姓だったのであろうか。もしこれらの人物が見つかれば、いつの冊封のときにこの棒術が沖縄に伝わったのか特定できるかもしれない。

ちなみに、この多和田眞淳は有名な植物学者で、本部朝勇とも知り合いであった。多和田氏は本部朝勇の取手も見たことがあったという。どういう関係で本部朝勇と知り合えたかわからないが、多和田氏は添石家とは縁者であった。ちなみに、松村宗棍の弟子に多和田眞睦がいるが、名乗頭の「眞」が同じなので、同じ一族の者だったのであろう。

ところで、船越先生によると、添石氏は棒術の他に空手もやっていたという。その伝系は不明であるが、「添石殿内手」のようなものがあったのかもしれない。

注1 船越義珍『空手道一路(再刊)』講談社、昭和51年、107-110頁。
注2 多和田眞淳「琉球の武術」『琉球の文化』琉球文化社、1973年、153頁。
注3 「沖縄県華士族金録等処分ノ件」(明治17年1月)。

出典:
「棒術の宗家、添石殿内」(アメブロ、2020年12月20日)。





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