船越義珍の『空手道一路』(昭和31)に以下の文章がある。少し長いが引用する。
末吉(すえよし)は添石(そえいし)の誤記である。どちらも沖縄方言で「シーシ」と発音するので、船越先生は勘違いしたのであろう。添石家は、5大名門の一つ、馬氏小禄殿内の分家(支流)である。廃藩時には、中城間切添石村を領地とする脇地頭の地位にあった。領地持ちの、いわゆる上級士族で「殿内」の敬称を付けて、添石殿内(そえいしどぅんち)と呼ばれた。この添石殿内の歴代当主は、世襲で琉球国王の棒術の指南役を務めたとされる。多和田眞淳「琉球の武術」(1973)に、以下の一文がある。
「琉球国王と武術」の記事で、筆者は松村宗棍や鉄拳宮城は、近習として国王の武術指南役を務めたのであろうと述べたが、近習は王府の正式な役職であり、これを特定の家柄が代々世襲するというのは考えにくい。王府内の出世は、基本的には実力主義だったからである。もちろん三司官などは特定の家柄に限定はされていたが。
それゆえ、国王の武術指南役として一代限りで近習や守役に就く者がいた一方、添石家のように世襲で武術を指南する私的な役職があったのであろう。
本部御殿もそうだが、このように沖縄には代々武術を世襲する家柄があった。筆者が宗家や沖縄の門中の方から聞いた話では、本部朝基の祖父の本部按司朝章は、国王3代の武術指南役を務めたそうである。
ところで、船越先生が出会った添石(末吉)氏は誰だったのであろうか。
上の写真は、明治17年に明治政府が作成した文書(注3)における中城間切の旧領主一覧の頁であるが、そこに「添石良術」という人物が記載されている。それゆえ、船越先生の会った人物は、この添石良術か彼の息子だったのであろう。
多和田眞淳によると、添石家の棒術は中国の冊封使が伝えたものだったという。すると、趙氏や周氏は、冊封使節の武官の姓だったのであろうか。もしこれらの人物が見つかれば、いつの冊封のときにこの棒術が沖縄に伝わったのか特定できるかもしれない。
ちなみに、この多和田眞淳は有名な植物学者で、本部朝勇とも知り合いであった。多和田氏は本部朝勇の取手も見たことがあったという。どういう関係で本部朝勇と知り合えたかわからないが、多和田氏は添石家とは縁者であった。ちなみに、松村宗棍の弟子に多和田眞睦がいるが、名乗頭の「眞」が同じなので、同じ一族の者だったのであろう。
ところで、船越先生によると、添石氏は棒術の他に空手もやっていたという。その伝系は不明であるが、「添石殿内手」のようなものがあったのかもしれない。
注1 船越義珍『空手道一路(再刊)』講談社、昭和51年、107-110頁。
注2 多和田眞淳「琉球の武術」『琉球の文化』琉球文化社、1973年、153頁。
注3 「沖縄県華士族金録等処分ノ件」(明治17年1月)。
出典:
「棒術の宗家、添石殿内」(アメブロ、2020年12月20日)。