「空手に先手なし」の誤伝と安里安恒の戦闘法
「空手(唐手)に先手なし」という言葉がある。船越義珍が広めたので、船越先生の言葉としばしば誤解されているが、実は琉球王国時代からある古い言葉である。おそらく本来は「手に先手なし」とか「手拳に先手なし」だったのかもしれない。
さて、この言葉の意味について、よく「先に攻撃してはいけない」とか「敵が攻撃するまで手を出してはいけない」といった解釈がなされる。しかし、果たしてそういう意味であろうか。実は安里安恒がこの言葉について解説している文章がある。
昔の日本語なので少しわかりにくいが、現代文に翻訳すると以下の通りになる。
要するに、「空手に先手なし」という言葉は、敵よりも先に攻撃してはならないという意味ではない。あくまで青少年たちが、空手を使ってむやみに他人に暴力を振るったりしないように、戒めるための言葉である。
そして、実際の戦闘においては、敵よりも先に攻撃するということが重要である。これは、剣術で言うところの「先の先」と同じ意味である。そして、もし「先の先」が不可能であるならば、「後の先」、すなわちカウンターを狙いなさい。敵の突きを受けると同時に突き返すのである。
このように、安里は先に攻撃する重要性を説き、もしそれが不可能ならば、受けると同時に突きなさいと言っている。これは攻防一体、技法で言えば、「打ち外し」とか「突き受け」と呼ばれるカウンター技法である。
また、「空手に先手なし」の誤解について、本部朝基も『私の唐手術』(1932)で、「能く『先手してはいけない』と教える方々がある様だが、余程考え違いをしている」(58頁)と、安里と同じことを述べている。
つまり、大正時代から昭和初期にかけて、安里安恒や本部朝基がこの誤解を指摘しているのに、一向に改まらないばかりか、ますます誤解が拡散する傾向にある。そして、この誤解の「証明」として、「すべての型は受けから始まるのがその証拠である」といった解釈までなされている。
以前、アメブロの「空手用語と概念の固定化」の記事で述べたように、型の中で、一見受けに見える技が本当に受けとは限らない。それは突きかもしれない。また、突きに見える技が、突きではなく実は取手の可能性もある。
それゆえ、「すべての型は受けから始まる」などと単純化していうことはできない。型の外見的技法に惑われず柔軟に分解を解釈する。これが古流空手の考え方である。つまり用語や技法を固定化するのではなく、流動的に理解する。おそらく松村宗棍をはじめとして、昔の空手の大家たちが到達した境地はこういうものだったにちがいない。
出典:
「安里安恒の戦い方」(アメブロ、2020年5月14日)。