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ぼっち・ざ・ろっく!に百合を求めるな第二弾

年末にとち狂って書いた記事が微妙に反応されていた。

割合としては肯定7:否定3、といったところだろうか。自分で書いておいてなんだが、この記事を読んでもまだぼっち・ざ・ろっく!に百合を求める人がいるようで愕然とする(個人の意見です)。

文章が下手で真意が伝えきれていない部分は致し方ないというか全面的にすまなんだになるんだが、↑の記事で言いたかった本旨をくみ取ってくれている方も少なからず居たので強気の姿勢だ。

ということで本記事では、Twitter上で本記事を引用した感想ツイートや、本記事に直接ついたコメントほぼ全てにリプライしていく。

あなた…『覚悟して引用している人』…………ですよね

記事を「引用」してツイートをするって事は
逆に「引用」されるかもしれないという危険を常に
『覚悟して来ている人』ってわけですよね…

というかnoteから直接Twitterに引用したら執筆者にメンション飛ぶの知っておきながら持論を述べたってわけですよね…

厄介かみつきオタクを正当化したところで本旨に入る。本当に引用されたくない人がいたら連絡してください消しますんで。

肯定意見

ありがとう。喜多はまだこの記事投稿時から今の今まで味がしている。すこしもちゃもちゃしてきた。


褒め言葉とお受け取りします。が、そこまで強火のつもりではなかった。

筆者の本職はまちカドまぞくであり、作者の伊藤いづも先生が体調不良で供給が途絶えて久しく気が狂いかけたところでぼっち・ざ・ろっく!に出会っている。悪い言い方をすれば代替品扱いなので、思われているほど強火オタクではない。


お誘い待ってます。(そこまで怪文書をしたためたつもりもないけど)

ちなみに↑のツイ主の二次創作SSは私に届いた。大変申し訳ないことに二次創作SSに個人的にあまり耐性がないので全て読めてはいないので、これを見た人は代わりに読んでほしい。

つーかぼ喜多百合だし申し訳ないが解釈違いでした。ごめん。


百合豚です。
アニメでは追加シーンやセリフ改変、演出、劇中歌の歌詞により、原作に比べてお互いへの憧れとか尊敬とかに大きくバフがかかってるように思えます。

星座になれたらとか、結構重めな喜多への憧れとか思いを歌詞に込めて直接本人にうたわせるというなんとも言えない事をしているし。
そういう所が百合豚に大きく刺さっているように感じます。

原作読むとやっぱ百合というよりすごい熱い友情だよなって感じがします。
お互いがお互いの持ってない物に強く憧れて、尊敬しあっている。
百合要素はあまり感じない。

でも自分に無い物を持つ他者に対する強い憧れや思いは行き過ぎたり変化すれば恋愛に発展する場合もあるので、
ぼっちざろっくの百合二次創作などは、お互いへの感情が行き過ぎて恋に変わってしまった場合のIFストーリーだと思って楽しんで見ています。

https://note.com/moto_short/n/n699dded10579
コメントより

続いて記事のコメントより。返信でも書いたのだが、百合豚を自称している人でここまで知的な方は知らない。

筆者の中では百合豚を自称する人は総じて脳みそを百合にやられて何かおかしくなっている人しかいない。

アニメの改変については、原作の関係性の補強に重点を置かれている印象があり、良くも悪くも個々のキャラの心象が表出していると思われる。個人的には改悪の印象が強かったのだが、文化祭ライブ編は所謂「原作超え」を果たしているように感じた。

にしたって、同じ百合豚たちを客観的視点で分析するだけでなく、筆者の主張を尊重しつつ両者を立てているので本当に聡明というか懐が広すぎる。今後百合豚などではなく百合菩薩と名乗られたらよいのでは。


原作だけで判断するならこれが正しいとは思うけど(実際ぼざろは歴代のきらら漫画の中でもがっこうぐらい並に異端だし)、アニメと漫画は別々で考えるべきと思うよ
喜多からぼっちへの感情の重さが原作の比じゃない
喜多→→←ぼっち
ぐらいのがアニメだと
喜多→→→→←ぼっち
ぐらい重い、明らかに演出は狙ってるしぼ喜多のカップリングをわかりやすくすることで集客率を高める目的もあるから、アニメ見てこの2人の関係性で脳焼かれるのは普通に正しい反応
もう一度言うと、原作で判断する場合はあなたが正しい、原作でのぼ喜多と百合豚の想像するぼ喜多だと明らかに百合豚の想像が過激すぎる

https://note.com/moto_short/n/n699dded10579
コメントより

肯定意見の中でも比較的過激な方。というか思想がほぼ筆者。

あえて難癖をつけさせていただくなら、まんがタイムきらら系列の作品はは「4コマ」「女の子メイン」の形式に沿っていれば意外に自由度が高く、特に「きららキャラット」は内容勝負の実力派であると思う。

「ごちうさ」や「NEWGAME!」のヒットでその手の日常百合モノにフィードされがちだが、隠れた名作は多いので一度本誌を手に取ってみてはいかがだろうか。

現行誌で筆者一押しはきららキャラット。休載中ではあるが筆者の人生である「まちカドまぞく」だけでなく、結構えぐめな描写があった「死神ドットコム」、特撮をテーマにした熱い王道部活モノである「ニチアサ以外はやってます!」、「おちこぼれフルーツタルト」、「キルミーベイベー」など、読みごたえは保証する。


否定意見

一つだけ言わせてほしい。ただの人格否定になってしまう恐れを孕んでいる発言なのだが、本当に言わせてほしい。

否定意見、日本語があまりマトモじゃない。

既に消されているのだが、「日本語がマトモじゃない」か「反論としての体裁をなしていない」意見ばっかり引用されていた。本当に百合に脳みそやられてんのか?と思った。

そしてなぜかいいねをしたら消えていった。覚悟が足らん覚悟が。己の意見をネットに、ましてやメンション付きで放出するのに覚悟を示せ。お前の「好き」を貫き通すための度胸を見せろ。

ということで日本語が残念な否定意見をボロクソにこけ下すために作った記事なのにそのほとんどが消されてしまったから、まともな反対意見にリプライしていく。


本当に反対意見がこれぐらいしか残っていない。一部肯定してもらってすらいる。

この感想について突っ込ませていただく(というより反論として突っ込める)唯一の部分である「一方でギャグ調ながらも明確に恋愛の文脈で「喜多の気を引こうとする後藤」が既に描かれている」について。

.......…そんなんあった?申し訳ないが特に該当シーンが思い当たらなかった。
原作だと5巻の

喜多「あれ?またチューニング狂ってるわ」
後藤「あっ皆の狂わせときました…(私のほうが悪い女ですよ…)」
喜多(最近のやんちゃアピ何なの?)
喜多の気を引こうとクズにはクズをぶつけてみたが好感度が下がっただけの後藤だった

ぼっち・ざ・ろっく!5巻

ぐらいだろうか。このシーンでは確かに後藤が「喜多ちゃんの自由だけどそんな恋愛はショック…」と言って顔面崩壊した後のシーンなので、そういう文脈と読み取ったのだろうが、ここの後藤の行動は

「悪い男と逃避行しているような歌詞を書いてきた喜多が、日常的に歌詞のようなことをやっていると(認識のずれで)後藤が勘違いしてしまい、『人の自由ではあるがそういう恋愛はやめて欲しい』という思いで、悪い男を演じ喜多がどこか遠くへ行ってしまわないようにした」

になるので、「恋愛の文脈」というより「親友が道を踏み外さないようにした結果」と言えるだろう。

…にしてもめちゃくちゃ行動が浅はかなのはギャグ文脈というか、後藤の対人経験の無さも影響してそうではある。
仮に後藤が非ノンケで、喜多のイマジナリー悪い彼氏の代わりになろうとしているのなら、コイツの行動力ならもっと大胆なことをしそうという信頼がある。
(というかぼ喜多が生じる理由として、後藤の突飛な行動の分かりにくさが大いに影響しているような気がしてきた。)

あといま改めて4巻以降を読んだが、むしろ喜多側からのアプローチの方が多い気がする。これに関しては純粋に同じクラスになった故絡みが増えているだけな気はするが。

キャラの方向性の定まっていない初期ならまだしも、担当編集には「生足は出さなくていいです」と言われ編集部には「後藤」呼びされ、思ったよりもガチの陰キャを演じたからという理由で声優を起用した原作者はまじあき先生が現在のスタイルを確立している5巻での話である。恋愛感情所以の所作というにはいささか苦しいように思う。

閑話休題

前回の記事では、主に結束バンド全体の関係性という切り口から「ぼ喜多に百合は無い」と反論を行ったわけだが、根拠となる描写はアニメおよび、原作3巻までに収めている。

その気になれば5巻の喜多作詞回とか触れることはできたのだが、作中における人間関係や、はまじあき先生の中でのキャラクターの動かし方というのも、初期と後期では大きく変わってくるだろうということで、取り上げていない。


過激派百合としての力業を見た。いや、そうなんだけどそうじゃない。

この方は過激派百合として、とりあえず女の子2人がいれば百合に昇華して美味しくいただくのだろう。表現の自由というか思想の自由というか、別にそれは構わないのだが、こっちにだって同じ自由があるからな…となってしまうので、そのメタ的切り口は意見と議論の前提として封じているのだ。ご理解いただきたい。


さあ、反対意見が底を尽きてしまった。マジで消しすぎ。一週間ぐらい前まではあと2つぐらいあったのだが、本当に消えている。

ここで終わってもいいが、なんせ筆者は消化不良だ。インターネット空リプレスバトルに好戦的になるのはおすすめしない。筆者は馬鹿だからできるのだ。

と、いうことで記事名でググったところ。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/moto_short/n/n699dded10579

はてなブックマークされてるじゃ~~~ん!!!


はてなブックマーク肯定意見

ということで第2ラウンドだ。恥ずかしながら今の今まではてなブックマークというものを知らなかったので調べたところ、どうやらインターネット状の好きな記事を保存できるらしい。それを共有したりでき、今回はそこに引っ付いているコメントにウザ絡みしていく。
このサービス形態なら「覚悟して引用」論も通用するだろう。

punkgame リコリコとか水星とかもそうなんだけど作中で恋愛にまで足突っ込んでないものに対して百合である前提でみんなが話すの俺も苦手。無いものを読むのは二次創作だけにしてもらいたい。作中にあるならしょうがないけど

i-think-so-too "結束バンドは後藤ひとりをマイルストーンとした個々人間の唯一無二な友情の集合体" これ。まあ原作の喜多ちゃんはここから小学生みたいな情緒になるけど。/ストーリーの話したい時に百合ネタが多くてぶっちゃけ邪魔

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/moto_short/n/n699dded10579
コメントより

筆者が前回の記事を書いた動機は、Twitterが「流れてくる絵の大半がぼ喜多の百合で、原作を尊重したものが少なすぎる」というのと、「あらゆる文脈をかなりの超解釈で百合に紐づけるインフルエンサー系感想垢」で埋まってしまい、これは流石に作品に対するリスペクトがないのではないかとキレ散らかしたからだ。
筆者の思想は最後尾のお気持ち表明にまとめてあるので、よかったらご一読いただきたい。

osyamannbe ぼ喜多が鎧塚みぞれ&傘木希美に近いと感じたのは俺だけではなかったようだ…作者さんインタビューでは後藤ひとりに似てると語っていたが、喜多の方が自身のエッセンス詰まっているんじゃなかろうか

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/moto_short/n/n699dded10579
コメントより

わかる。はまじあき先生は陰陽で言えば陽だと思う。

t_trad 原作既読勢からしたら、連載当時のキャラブレやタッチの違いもあってそうは思ってないけど、アニメであんな粘っこい描き方したらそりゃそう受け取る人続出しますわ

sora_h 最後はすごくわかる。薄い界隈(?)のウケ狙ってぼ喜多要素いれてるなー感がアニメにはあったなぁ(嫌とか不快とかではないんだけど)

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/moto_short/n/n699dded10579
コメントより

筆者の観測範囲において、予てより原作勢は、アニメの描写について不満を呈していることが多い。
筆者もアニメから入ったクチではあるが、アニメの描写についてはおおむね改悪であると思っている。(アニメが嫌いというわけではない。)
芳文社というか、きらら作品はアニメ化に際してなんかそういう傾向を入れたがる雰囲気はある。気がする。気がするだけで確証はない。

natu3kan 喜多ちゃんって、ギターの教師としてのぼっちの演奏が実はうまいのではって、経験を経て耳が肥えてるのあるし、後方彼氏面のファンにはなりそうよね。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/moto_short/n/n699dded10579
コメントより

わかる。この辺の描写の話をするなら後藤家訪問回で5時間は行けそうだ。
後藤家訪問回はアニメのほうが原作より好きだ。
「そうだよ、ぼっちちゃんは可愛いんだよ」が原作ではギャグテイストで、正直そっちのほうが好みなのだが、あの段階で後方彼氏面する虹夏と彼女面喜多は解釈が一致だ。だからと言って百合とは言わないが。


はてなブックマーク反対意見

ichigocage 二次創作は原作にないものをやる目的があるんだから原作になければ恋愛やるのは正道のはず/百合はガールズラブではなく百合なので恋愛以外の感情も含まれるはず

aa_R_waiwai 言ってることは分かるし割と同意だけど、二次創作なんてそもそも原作にないifルートを作ってるわけだから、原作からすれば解釈違いになるのは当然なんだよな。BL系同人なんて全滅するし。

kusomiiso 二次創作はお前の萌えを他人に任せるなの世界ジャン。男の人でも地雷ってあるんだなーっていう知見を得た

marilyn-yasu ぼ喜多への理解は禿同だけど二次創作で二人の関係を恋愛にしようとそれは勝手なのだよ!BLだろうとなんだろとな!!だから俺はぼ喜多にねちっこい劣情的愛を感じてるんだわ!!!

kangiren 百合=恋愛というのが頭固いなあ。

nicht-sein これで納得してぼ喜多やめるような人なら最初からやってないと思う/百合の定義が相変わらず人によってグダグダで女性同士の重い感情があれば百合と言う人もいれば百合は恋愛感情です、とかあって困る(困らない)

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/moto_short/n/n699dded10579
コメントより

ひとつ言わせてほしい。

そんなもん前提条件として承知の上で俺は俺の言いたいことを言ってるんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

頼むから前提から覆そうとするのはやめて欲しい。
「二次創作は原作に無いものを妄想して勝手に作るもの」なんてそんなもん承知の上で文句を述べてるんだ。オタク語彙で言わせてもらうとただの「解釈違い」だから「こういう理由で解釈違いです」と言っているだけだ。

というか読め。例の記事の序文を。もう一度読め。

俺は俺がぼ喜多百合が好きじゃない理由を知ってほしいだけであって二次創作自体の否定をしていない。
俺は俺の好きなぼっち・ざ・ろっく!二次創作は積極的に探している。

しかしまあ、現行のぼっち・ざ・ろっく!界隈における二次創作において、百合創作が主流になる状況は宜しくないとは考えているが、そんなことは例の記事には一切書いたつもりはない。

そして百合の定義のお話は、古今東西あらゆるところで発生する火種であるので、それを持ち出すのは正直反論としてはナンセンスと言わざるを得ない。
筆者の非としては、「恋愛として描写されるぼ喜多」と明言しなかったことぐらいだろうか。

hurafula 後藤さんは言い寄られたら断れないから雰囲気と流れに身を任せて後悔しながらズブズブになる感じがする

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/moto_short/n/n699dded10579
コメントより

これに関してはその通りな気がする。後藤のそういう気の弱さを利用して、いつの間にか喜多か星歌か虹夏に結婚させられているテンプレ的な二次創作をよく見かけるので、ファンも後藤の弱さに付け込んでいる。悪い連中だ。


ということで、筆者の観測できる範囲ではあの記事に関する反応はこれで全てとなる。疲れた。
最後に、あの記事が引用されました!とご丁寧にnoteくんが教えてくれた以下の記事が考察として最高だったので、ぜひ読んでください。




お気持ち表明

こっから先は校正も意見の整合もとっていない本当の駄文書き散らしなので見なくていい。筆者の強めな思想丸出しなので、攻撃性も強い…かもしれないので、お気を付けください。

最近、オタクのコンテンツ消費の仕方に問題があるように思えてならない。

特に最近だとリコリス・リコイル、ぼっち・ざ・ろっく!で多く感じた。

作品の中の1要素が自分好みの形だからって、作品そのものを自分の好きな型に押し込んで語っていないだろうか。

コンテンツ消費者としてのリテラシーを身に着けずにやれ流行りのアニメだの、百合でブヒるだのしていると視野が狭まるし、作り手側にも消費者側にも悪影響が連鎖していく。やがて定型的な有象無象の粗悪コンテンツが乱立し、すでに受けた刺激を何度も摂取し感覚がマヒする。
感動に新鮮さと多様さを求める努力を放棄していないだろうか。

前の記事で「ぼ喜多にあるのは一種の友情の形であり恋愛感情なんてどこにあるんだ、多少でもお互いのことを踏み込んで知ろうとする関係性すべてを恋愛と呼んでると実際の人間関係における経験不足を晒しているようなものだからやめておけ」と言ったが、これはある意味筆者の本心というか信条そのもので、

現実で充実していないような人間が、サブカルを通じて疑似的に感動を摂取する行為は健全でない。サブカルチャーは人生を豊かにするためにあるのであって、それそのものを人生にするには特殊な技能か訓練が必要であると考える。世の大半の陰キャにそれがあるとは思えない。

作品は我々のためにある情報の砂場ではなく、作り手と消費者双方の精神的豊かさのために存在すると思っている。

消費者は最低限のリスペクトを作品に持つべきであり、二次創作においては特に意識しなければならないのでは?と常日頃思っている。
近年だとウマ娘エロ絵禁止あたりで表面化している。

最近のウマ娘絵、見てる?
バニーとかあれどうなの?ってなるし、pixivにはAI生成のウマ娘エロ絵が流れてくる。

社会的な同調圧力がないと、版権を持つ企業が定めるガイドラインを平気で破る絵描きなんてごまんといるのだ。

第一、二次創作の成り立ち的にもグレーなところが多いのに、よくもまあ面の皮厚く二次創作の権利を主張してられるなあ…と思わなくもない。
二次創作の活発さ=作品の人気に直結するような時代になり、さらに過激な創作がデカい顔をできるようになったからこそ、それはどうなの?と思う。

話にまとまりがないのは承前のとおりだが、要するに言いたいこととしては、「自由を行使するにはそれ相応の覚悟が要るのでは?いずれ自分の首を絞める未来が来る可能性すらも考慮せず、ひたすら雑にコンテンツを消費していないだろうか」ということだ。

お目汚し失礼しました。


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