記事一覧
写真の「現在/過去」の二重性―畠山直哉「出来事と写真」
自分が生まれる前の両親の写真には、人間と自然に関する回路があり、多くのヒントがあるという話です。畠山直哉さんに関する文章を引用するのはこれが最後になります。これまで「自然」という概念をめぐり書いてきましたが、それを経験可能なものに落とすというのが目的です。そして、それは写真の芸術性において重要なものです。
像と現実は、論理のタイプが異なる。このことを念頭に置いて、写真の経験を言い直してみよう。視
カメラは機械である ー畠山直哉・木村伊兵衛より
前ページで、畠山直哉さんの「自然とは、人間の原理を超えて現象しているもの」という考えを取り出し、その説明をしました。そこから、「みえないもの」「豊潤な世界」「外の世界」のほかに、「崇高」や「スペクタクル」という言葉が引用されました。
立ち止まって考えてみると、なぜこのような思考が一部の写真家、写真作家において成熟されているのでしょうか。「自然」というものを扱ってきたのは、昔であれば、死をあつかう
自然とは、人間の原理を超えて現象しているもの ―畠山直哉「出来事と写真」
自分の思考を明晰に語り、また、その思考を頼りに作品を生み出している写真家として畠山直哉さんがいます。「BLAST」という石灰石鉱山の発破の瞬間を撮影したシリーズが有名であり、東日本大震災以後の「陸前高田 2011‐2014」のような私写真的な試みもあります。今日、これから話すのは「BLAST」を念頭に置いてもらえると理解が早いと思います。
自然とは、人間の原理を超えて現象しているもの(「出来事と
「顔」の消失から<非―人間性>へ ー山元彩香、個展。
山元彩香さんという写真家の個展へいきました。
とてもよかったので共有したいと思います。
まずは、以下に参考の写真を載せています。
彼女の撮る人物は、顔が覆われていたり、横顔であったり、顔が見えても生気を欠いているのが特徴的です。その人物の写真は、「普遍的な人間の姿」「無意識の姿」と形容されています。私たちはその写真をみると、美しさや静謐、不気味さ、妖しさといった様々な感情を思い浮かべるでしょう。
「ふつう」の芸術って「ちびまる子ちゃん」なのかもしれない
「ふつう」とはなんでしょうか。
これらは特に関係のないツイートですが、頭の片隅に残っていて、探して並べてみました。
自分はいつからか「ふつう」という言葉を使っています。
これらのツイートはその「ふつう」に含まれる多様なものを感じました。
特に、最初のツイートに関して全面的に同意するわけではありませんが、昨今のアートでも社会問題やマイノリティを扱うことは当然であり、また、アートはそうした問題を
アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉② ー「アナーキー」の思想
前記事ではアンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」と「逃げ去るイメージ」の違いについて書きました。
「内と外の均衡する瞬間」という言葉からもわかるように、「わたし」という内側の世界と外側の世界というふたつの世界があります。外側の世界は、この世界それ自体のことなので、普遍的なものです。一方で、創作や作品に直接影響を及ぼすのは、「わたし」の世界です。ブレッソンにおける「わたし」の世界とはどのよ
アンリ・カルティエ=ブレッソンの言葉①
アンリ・カルティエ=ブレッソン。戦前から戦後に活躍した写真家で、説明するまでもなく、有名なスナップショットの名人です。「決定的瞬間」という言葉を知っている方もいるでしょう。
有名な話ですが、この「決定的瞬間」は、1952年にアメリカで出版した写真集の名前です。ところが、フランスでの原題は『Images a la sauvette』で「逃げ去るイメージ」となります。この違いは、思いのほか大きく、ブ
ルイジ・ギッリの言葉 ー「ふつうのイメージ」
自分の写真観を説明するために、偉大な写真家の文章を拝借したいと思います。
今日は、ルイジ・ギッリの「写真講義」という本です。ギッリは画家ジョルジョ・モランディのアトリエ撮影の写真が有名です。30歳ごろから49歳で夭逝するまでのわずか20年弱の間、写真での制作を行いました。日本では昨年、個展が開かれ再評価されています。上記の画像は、「写真講義」の背表紙で、モランディの作品を撮影したものになります。