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想いを奏でても出来ることは限られる

先日のことだ。

私の周りには私の文章を読む人間は一人もいない。そもそも、私が本を好きなことも知らぬまま友人として過ごしている人間が大半だ。

私は、友人に書くことも好きだと伝えている。その話になるのは大抵、話すことが尽きたときだ。

「お前、まだ読み書きしてんの?」

思い出したように紡がれる。この日の空気にはピッタリだった。

「それを読書として捉えるのか、書き物として捉えるのかで返答が変わるけどどうする」

私は、こういう会話が好きだが、それに真正面から答えてくれる人はSNSで繋がっている人達が多い。

希薄であるはずの正体が分からない人達の方が真摯だったりする。それはそれで好きだと私は思っていたりする。

私は友人に返答する。

「それは君に仕事とお酒をまだ続けてるのかい。と聞くようなものだ」

友人は一瞬の間を置き、こう聞いてきた。

「それは、俺達にとってギリギリまで失くせないものだな。でも本当にどうしようもなくなったら失くせる。そう思わないか」

友人にしては、珍しく考えさせられる問いだった。いつも思うが、本を開きもしない友人達の方がどうしてこうも真正面をついてくることが出来るのか私には理解出来ない。友人達の方がちゃんと生きているのではないかと不安になる。

私が本当にギリギリまで失くせないもの。人の価値観や感情、そして物語を本を通して読み、私は人間を理解しようとしている。だけど私自身が喪失するとしたら何を失いたくないか。

考えなくてはいけない。

最近読んだ本は、世代間で自身が喪われてもその想いや感情は何年、何百年と繋がるということを書いていた。すごく面白かった。実体としての形を持たぬものこそ、はっきりとした形として心で繋いでいけるのならそれにこそ意味があるのではないかと感じた。

だったら書くしかない。書けるうちに書きまくれ。それを残しておけ。そう思ったがそれを言わなくても良い関係だった。それはそれで、自分はすごく助かる。

「最後まで失いたくないものが分かったら、それを物語にしてお前にあげるわ」

「読まねぇけど貰っとく」

先に進んでいった仲間を思い出して、時間を戻して話すことが増えてきた。生きることを考える。

なんのはなしですか

「まぁ、結局は女性だな。自分を失っても失いたくない」

堂々と高校時代から同じことを言い続ける友人に深く同意し、人間は人間を好きであると位置付け、次のモテ期がいつになるかを予想しあった。

そして私は、憧れられていたことを思い出した。憧れられるのが自分に最近足りてないことに気付いたのだ。必要だ。そういう眼差しが今、私には必要だった。

今月末に物語は生まれる。「今年1年頑張りましたね」と言われたい。

掲載されなかったら察しておくれ。


もう少しだけ楽しんでいくから、ちょっとだけそっちで待ってて。


自分に何が書けるか、何を求めているか、探している途中ですが、サポートいただいたお気持ちは、忘れずに活かしたいと思っています。