私が世界に嘘をつくとき、世界も私に嘘をつく
世界に対する信頼が、ふつり、と途切れた瞬間を覚えている。
その時私は小学6年生だった。
その時私の身長は151センチだった。
その時私はやや肥満児で、肌が弱くていつも顔や体は掻きむしったあとでボロボロで、にきびっぽく、髪の毛をブローすることも、自分が着たい服を着るということも知らなかった。
その時私は母の話を一心に聞く役割の人だった。
朝、学校に行く前の貴重な10分間や15分間を彼女の話を聞くことに捧げ、時には遅刻しそうになって(そのことすら言えず)、通学路を駆け足で向かうこともあった。
その時母は、聡明で、鈍感で、タフで、脆くて、絶対的で、守らなければならない、なんともいびつな形の人だった。
私はいつも母に、「この人には私がいなきゃ」と思っていた。誇りと確信を持って。
彼女の家庭の愚痴も、職場の愚痴も、友人の愚痴も、ちょうど背伸びをしたいざかりの少女にとってはまるで「認められている」みたいな特別感があった。
早く大人になりたい。もうなっているかもしれない。私は母の期待に応えて、彼女が自分でも気がついていない寂しさを埋めて、健やかに笑ってくれればいいと思っていた。
毎日、毎日、祈りを捧げる。
こんなにたくさん話を聞いて、彼女が"快方"に向かうことを。
私たちの中が満ち満ちて、溢れて、いっぱいになって、幸福が滴り落ちるその日を。
私はずっと無邪気に待っていた。信じていた。疑うこともなく、少女なりの愚かさで。
その日の朝も全くいつもと同じだったと思う。
その日の私もいつもどおりに、髪の毛を一本に引っ詰めて、誰かのおさがりの真っ黒で毛玉だらけのトレーナーを着ていて、体のラインが隠れるダボダボのチノパンを履いていた。
小学生にしては少し大きめなその体を丸めて、斜め下の地面をぼんやり見つめながら歩いていた。
(どうしてそんなに変な姿勢で歩くの?とクラスメートに笑われたことがある。
どうして?顔を上げるのが苦痛だったから、誰にも見つけられたくなかったから、何もかも入れっぱなしで5キロもある鞄が重くてダルかったから。)
「あれ?私と話している時、皆って楽しいのかな?」
登下校の15分間、当時スマホもない私は何か思いついたら、それについて考えることで時間を潰していた。それは明日の宿題だったり、今月のりぼんだったり、友達が言った何気ない一言だったりした。
特に何かを結論づけるわけでもなく、のんべんだらりと漠然とした思いを馳せる、本当に暇つぶしのための時間だった。
なのにその日はすらりと差し込むように、"それ"が浮かんできた。頭の中に冷たい何かを差し込むように。
「あれ?皆が私のことを"嫌いじゃない"って、何も証明できないんじゃないか?」
あの子も、あの子も、私の話を、いっしょにいる時間を、仕方なく、気を遣って、本当はつまらないと思いながら、過ごしているのではないか?
私が朝、母の話を「いつ終わるのだろうか」とハラハラしながら聞くように。変わらない愚痴に、時折おざなりに返事をするように。楽しくないけれど笑わなきゃ、彼女が傷つくかもしれないと心配するように。
"同じように"、誰かが私を気遣っていないと、誰かが私にうんざりしていないと、誰かが私に「いつになったら気がつくんだろう」と思っていないと、どうして、断言できるのだろう?
今まで、私の目の前の人間が、私に悪感情を持っていないと、好意的で、何の害もないと、どうして信じることができたのだろう?むしろ。
何の根拠もないじゃないか。
この世界に、友情に、発話に、対面に、時間に、私に、何の根拠もない。
ユリイカ!と"それ"は確信を持って、私の背中を冷たい手でヒヤリと撫でたのだった。
* * *
ということを、ふいに西尾維新の作品の一つのセリフを思い出して、まざまざと蘇ったので、書きつけておいた。
世界に対して嘘をついたきみは──今、世界から騙されている気がして、ならないんだ。嘘ばかりついてきたから、誰も信用できない。そう、『嘘つき』が抱える真の悩みはそこなのさ。
『きみとぼくの壊れた世界』(西尾維新)