11/1(土) 各停だと死ねないよね
煙がたゆたう室内。白いソファ。シーシャ屋にしては珍しく明るくて、清潔感を押し出したような内装だった。初めて来る店。滅多に来ない街。
今日はありがとう死にたくてさ、駅で電車待ってたけど各停だと死ねないよね、とつらつら喋ると、私をシーシャに誘ったAがなめらかに答えた。「そうだよ減速するからね」。快速が止まらない駅じゃなきゃ。
嗜めるのでも驚くでもなく「今日寒いね」「冬だね」みたいに当たり前さすら孕む会話で、安心する。お互いの、身近にある死を確信する。私はそれを責められたくない。
「死にたい」という気持ちはいつも、「突発的に現れる」とか「突然取り憑かれる」のではなくて、ただ元々そこにある。
たとえるならばそれは、「死にたさ」がひたひたに溜まった大きなプールのような光景だ。静かで冷たい水がある。
私はその上で、ビート板に掴まっている時もあるし、活き活きと泳いでいる時もあるし、浮き輪に乗って気楽にぷかぷかしている時もある。
だけど、時折ビート板も浮き輪も見失ってしまう。どこに行ったのかはわからない。誰かが間違って持っていったのかもしれないし、どこかに返したのかもしれないし、元から無かったのかもしれない。
ただ、気づいた時にはどこにも無くて、泳ぐ力もなくなって、ひたひたの「死にたさ」にゆっくり沈んでいく日がある。
落ちてしまった先は無機質なプールの底で、そこには何もない。ぶくぶくと逃げていく自分の中の空気を見つめている。動けないし、もう動きたくない。圧迫感と薄暗い室内。
「死にたさ」は冷たくて静かで苦しいけれどほっとする。ビート板も浮き輪も不安定だから、泳ぎ続けるのは辛いから、もう無理にしがみつく必要がなくて「楽」なのだ。
プールを満たすこの水は、いつか無くなるのだろうか。この部屋ごと、いつか封鎖されるのだろうか。
何がどうなれば救われるかは知らないが、今はただ、「死にたい」と言えば「わかるよ」と返って来ることに安心する。と思った11月1日(晴れ)。荷物の受け取りは間に合わず不在通知。