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環境のせいにするのは楽だから。
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あたいは他責的である。
他責ってのは自身になんらかのトラブルや落ち度があった時、それを他の人のせいや環境のせいにする思考のことだ。
まぁそうは言っても別にあたいは、自身の人生の責任を誰かべつの他人に完全に委ねることはしないし、失敗や挫折を経験しても大抵は自分に落ち度を見出すことから始めるので、「100%、〇〇のせいで失敗した」なんて考えたりすることはない。それができたらどれだけ人生が楽で、どれだけ生きづらかったことだろうと思う。
自身が引き起こした悲しみや怒りは、自己責任から出発すればいずれ自分自身のことなので解決に導けるという希望があるけれど、他人のせいにすればいつまで経っても出発点から離れられない。だって他人が変わったかどうかなんて分からないし、他人の謝罪を受け入れるのも許すのも自分次第だから。そこで“自分が変わる“という視点が無いと一生許しもできない。他責でいると変化が訪れないということなのだ。
いつまでも同じ地点で同じ怒りや悲しみの中で生きることは、これ以上の傷つきを得ない点では一見楽そうだけど、傷を埋めないという膠着状態でもあるので辛い生き方だと思う。
あたいの場合、それとは違うかもしれない。
あたいの他責というのは、「自分がここにいない」という感覚をいつまでも持っているということだ。
何か失敗したり、自身の至らないところに目を向けたり、自省する時にあったり、失言や諍いを起こしたり、他人に嫌われたり、非難轟々と炎上したとしても、それは「今の自分が起こしたこと(及び過去の自分が引き起こしたこと)」であり、「これからのあたいのこと」ではないと考えている。
なので、過去未来全てを含む自分まるごとを嫌って貶しめることはしない。過去は悔やむ。自分のことバカだなとは責める。だけどせめて未来だけは「どうなるかわからない」と信じているからこそ、自分で自分に絶望はしてない。
もちろん、開き直っているわけでは無いので失敗は怖い。そして自身で失敗を引き起こしたら辛いものは辛い。だけど失敗した時点でそれは過去のことだから。過去に起こした罪や失敗を忘れずに、人のせいにもせず、捨て去ることもなく、結果として取り返しや弁明ができない状態に陥っても自戒して背負う。
そして未来の自分がそれを繰り返さないことが責任だと考えているし、繰り返さないように生きればそれでいいとも考えてる。そんなとんでもポジティブ論こそがあたいの他責なのだ。
ただしこれは、誰かを傷つけたり、誰かに迷惑をかけた時にその人の前などでは言うことではない。ただのあたいの内心の所信だ。
自分自身に絶望しない理由には他のワケもある。あたいはたぶん、確固たる自分が無いからだ。
常に環境や他人の影響を受け、良い影響も悪い影響も自分の中に残り、そしてそれを取捨選択するときだけに自分が現れる、と感じている。もちろんそのとき「この人の考え方はいらない」「あの人の考え方を参考にしよう」と選ぶ自分の価値観自体も、きっとどこかから影響を受けた寄せ集めの自分ではあるのだろうけれど。
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