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同情されると死にたくなるよな



「同情されると死にたくなる」とタイトルに書いたけど、今のあたいはあんまりそう思ってない。

 ただ、昔はそう思ってた。だって同情されるって、自分が目を逸らしている現実を、他人が勝手に事細かに見つめて、これみよがしに「あなたはこんな境遇なんですよ、だから可哀想なんだけど分かってる? 自覚あるの?」と提示してくる迷惑な行為だと感じていたから。(我ながらすげぇ曲解と繊細さだ)

 そう感じてしまうくらいに、ガキの頃のあたいは自尊心も無く、他人への期待も無く、人に弱みを見せて助けを求める術も持ってなかったのだ。

 あるのはかろうじて自分一人を守るだけの自己愛と、それに伴うあさっての方向の攻撃性(疑心暗鬼の敵愾心や、人の言葉に耳を傾けないところ)くらい。つまり触れるもの皆傷つけるギザギザハートだった。一番傷ついてたのはそのギザギザを四六時中抱える自分自身だったと思うけど。


 だから昔は、同情に腹が立って、居た堪れなくなって、悲しくなって死にたくなったんだと思う。

 でも今は、繰り返すけれど「同情されると死にたくなる」とは思わない。むしろ、わざわざ言葉にして同情心を示さざるを得ないくらい黙っていられなくなった人たちの心の波立ちに当たると、少しほっこりする。そんな他人の善性から吹く風にさらされていると、この世界に希望すら持てる。

 これは子どもの頃のあたいには理解できない感覚だろう。いっときのお節介や、片手間の偽善や、いつでも切れてしまう責任のない繋がりも、明日には忘れる程度の感動や善意も、それでもこの世界を構成する重要なものなのだと、現在のあたいはそう考えている。そういうインスタントな善意こそ、誰かの一日を明日へと繋げる何かにもなる。必ずしも大義やぶっとい気骨だけが人を救うのではない。

 ただ、当時ガキンチョだったあたいは、「ずっと自分を救ってくれる父親」だとか「ずっと子どもに飯を食わせてくれる親」という恒久的で永遠のもの(もちろんそれも永遠ではないけれども)を期待していたから、いっときの同情に対して期待できていなかったのだろう。境遇を思うと、そう考えてしまうのは仕方がなかったとも思う。

 けど、「同情という感情が正しい」とは現在も考えていない。やっぱり当時あたいが感じていたような側面を持つとは思う。昔とは少し解釈が違うけれども、基本的に「相手に迷惑がられる危うさ」を持っていると自覚していなければならないだろうし、同情心という感情自体はどこまでも一方的な感覚で、決して絶対的な善意や正義では無いのだろう。




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