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あたいは「弱者男性」らしいけれど、名乗らない。



 呼び名(呼称)というのは思ってる以上に人を振り回すパワーがある。


 まずはじめに「フェミ」はどうだろう。

 フェミニズムやフェミニストの略語だけど、単なる略称じゃない。たとえば相手が過激な思想を持つフェミニストであると揶揄したり、SNSで極論を言う人間として取り沙汰するために「フェミ」「ツイフェミ」という言葉は使われている。つまり攻撃的で、迫害的な蔑称として使ってる人間がいる。


 だけど、あたいの周りのフェミニズムを支持してる人間は、わりとフェミニスト同士の会話中に「フェミ」という言葉を使ったりする。ちゃんとした場では「私はフェミニストだ」と名乗るけれど、仲間内だと「うちらフェミはさ」と言ってたりもした。公でもたとえばフェミニズム系トークイベントなどにもフェミというワードは冠していたりする。

 けどこれは、フェミって言葉がアンチフェミニズムやミソジニスト(女性差別者)たちに奪われ(簒奪され)ないための、自己活用なのだと思う。自分たちが肯定的に使って、言葉を取り戻すーーそういうプライド的な流れだ

 だから基本的に使うとしたら当事者のための言葉だ。フェミニストを公表してない人間が前置きもなく「フェミ」と口走ればフェミニストは警戒するし、そもそも悪意が無くてもフェミニストでない他人に言われること自体はおそらくあまり良しとしていない。

 そういう意味ではゲイの世界でも「オカマ」や「ホモ」って言葉も、界隈で自虐し合ったり、内輪の悪ノリで使ったりもする言葉なので、置かれている立ち位置はやや近い言葉かもしれない。


 ただ、ホモやオカマはどうあがいても「自虐」の範疇は越えられないだろう。時代遅れだと感じる当事者も少なくないし、自身は問題だと感じていなくても「時代遅れではないか」と論争になったりすることが億劫だったりする人間の方が多い。後者はノンポリ自認で、ポリコレが苦手で、ゲイが政治的な扱われをしたくないという政治的立場を取るゲイ当事者の方々だ。


 ただそのような反発があっても、あたいは問題視は必要だと思っている。なぜならその言葉が自虐として使われている文脈を読み取らずに、気軽に濫用していい言葉だと汲み取った非当事者の人間が「ゲイにはホモやオカマって言っていいんだ(だって本人が使ってるから)」となる可能性の方が高いからだ。

 てかぶっちゃけ、テレビやメディアでバンバンと臆面なく「オカマ」だ「オネェ」だとか使っていると、「問題はない」と感じる人間がほとんどだろう。

 あたいの卑近な事例で言うと、令和になってもいまだにノンケの知人や飲み仲間から「オカマさん」とか変な敬称で呼ばれたりして、この言葉の用法におけるバランス感覚や空気感は、大衆にはまだ伝わっていないと感じる。


 それに、そもそも「ホモ」や「オカマ」はあくまで当事者の言葉だったものが、あまりに差別的に使われてしまったがゆえに差別的な文脈を払拭できず、現状はせめてもの抵抗として女装家やプロのゲイが「大衆向け表現」として使っているだけに過ぎない。

 「差別の再生産」の問題もあるけれど、それ以上に揉まれている「理解しやすさ」や「大衆の求めてるもの」「マジョリティに反抗しない様」を考慮すると、その言葉を使ってしまうメディアに晒された当事者の心理や状況は、まぁ一部理解できる。あたいもいまだに使っちゃったりするし。

 だけれどそういったプライドや抵抗の意味では無く、ミソジニー(女嫌い)やホモフォビア(同性愛嫌悪)の文脈で「オカマ」や「ホモ」を使う当事者も多く、それを「文化だ」とまで言い切ってしまう様には、さすがにゲイ当事者からも批判が起こらなければゲイ文化が槍玉に上がってさらに政治的論争の渦中に入り組んでしまうだろう、とあたいは思う。

 一時期だとシスジェンダー(性別違和の無い人)であろうゲイたちが「あたしの性自認はaiko(笑)」「わたしの性自認は石原さとみ(笑)」と名乗ったりして遊んでいたが、まぁこれもどう考えてもそこにプライドは無いだろう。本当に性自認がaikoで訴訟を起こして問題提起してたら申し訳ない。


 そもそも、ゲイ業界ではホゲて(オネェ仕草をして)毒舌を扱う人間を「ババア」「オンナなところがある(性格が悪いという意)」と言ったりして、自虐のフリしたミソジニーなところが下地にあったりするのだから、「ホモ」や「オカマ」には留意が必要なのだ。

 ここには「普通の男でない、女以下の存在(女も含む)」のような含みが込められていることも多い。ここにこそ根深いミソジニーとホモフォビックが眠っている。なのでこの言葉が自虐からプライドに変容することはないだろう。



 「フェミ」に近い言葉だと「オタク」はそうかもしれない。こちらも良くないイメージが著名人やメディアによって積み上げられてきたのは間違いない。犯罪を犯した人間がアニメやゲームなどを好きだったりすると、鬼の首を取ったようにそれが最大の要因だと報じたりもされていた。そういう迫害が公認だった時代もあったように聞く。

 そしてオタクと呼ばれる人間たちもそのイメージを受け入れ、受容し、それに則って行動してきた節もあると思う(たとえばオタクと公表せず隠れオタクに徹したり、独身で「喪」であることをアイデンティティやコミュニティの結束とした)

 だけど現在、オタクであることはカジュアルに公表できるもので、なんなら共通の話題にできるツールや教養のようになり、あまつさえ国やテーマパークのような企業さえも「アニメで外国人などの観光客誘致ができる。クールジャパンだ」と手のひらを返す始末だ。ビビるよな。

 まぁあたいは幼少期からアニメやマンガゲームなどを通ってきておらず、オタクと呼ばれる人間じゃなかったので、この時代を当事者として過ごしたオタクたちの怒りや悲しみややるせなさは計り知れない。時代に奔放されたり、あるいはカジュアル化したことでオタクという言葉が簒奪されたという感じ方をしているのならば、想像もできない経験だと思う。


 やはりこう考えると「オタク」と「フェミ」はやはり近いのかもしれない。ネット上の取り扱いではなぜか双方が対極にあり、敵対しているかのように扱われるけれど、もちろんオタク文化の中にはフェミニズムが根付いているコンテンツもあるし、フェミニストの中にもオタクはいるので、安易な敵対に落とし込むのはさすがに解像度が低すぎるだろう。


 ちゃんと言葉一つだけで見ていくと、同じ変遷を辿っている箇所もあると思う。 


 だけど、最近の男性を揶揄する言葉たちーーたとえば「チーズ牛丼」「弱者男性」は、同じような変遷を辿るだろうか。


 結論から言う。あたいは思わない。もちろんこういった言葉を「オタク」や「オカマ」のように自虐の意味で使ってる人や、コミュニティ内での内輪ノリで用いたり、あるいは外側の人間たちに向けて、自分の置かれた立ち位置や環境(ルッキズムの被害者であることや孤立や孤独など)を顕示するために使ってる人もいると思う。

 もっと掘り下げて言えば、形而的な「男社会(助けを求めると落伍者として扱われ揶揄われる社会)」というものに揉まれることで「助けて」と言えない人間が、それでも自分の苦しさや悲痛を知らしめるために、復讐的に、あるいは他責と諦観と、それでも誰かが全肯定や無償の愛をくれることを願ってこの言葉を使ってる人もいると思う。

 だけど、あまりにこの言葉は「迫害性」が強いと、思う。

 自虐であっても自他共に対して迫害を生む。
 自分に対しても自分を傷つけるだけに留まるし、相手に対しても「絶対的な救い」を迫られたと緊張感や億劫さを押し付けてしまう。

 それに自分と似たような立場の人間でも「それでもお前はマシだ」「それでもこいつよりマシだ」というような連帯以外の反応ーーマウントが起き得る言葉だと思う。なぜなら容姿や環境や学歴・収入・交際関係など全てを対象としているので比較する箇所が多すぎるからだ。


 だからあたいは相手に使わせないし、使わないし、仮にあたいが置かれた環境が「弱者男性」のそれと重なろうと、あたいは名乗らない。でも名乗る人間に対してそれ即ち非難や嫌悪を向けたいとも思わない。

 あたいは「弱者男性」だと名乗る人が、それを名乗るに至ったまでの話を聞いたりしたいと思う。切実にそう思う。

 前置きが長くなったけど、今回はあたいの「男性論」をこの前起きたことと合わせて語る。



 この前、深夜3時くらいやわ。
 仕事終わりに飲みに行ったミックスバーにて。久しく会ってなかった腐れ縁で犬猿の仲の同年代ゲイとだべっていると、不意にこんなことを言い放ってきた。

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ここはあなたの宿であり、別荘であり、療養地。 あたいが毎月4本以上の文章を温泉のようにドバドバと湧かせて、かけながす。 内容はさまざまな思…

今ならあたいの投げキッス付きよ👄