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ケガをさせないことだけが正しいこと?

保育園で子どもがケガをしたことについての記述で、某芸能人の方のブログが炎上していました。今回はそんな保育園でのケガについて書いてみます。

経験は生きていくうえでの大きな財産

愛するわが子のケガ、心配で取り乱してしまう気持ち、とてもよくわかります。子どもが苦しんだり、痛がったりしているさまは、本当に胸がつぶれる思いになります。
自分がかわってあげられたら…。
親なら誰しも一度は感じたことがある心情ではないでしょうか。

でも、現実には親が子どもにかわってケガしてあげることはできません。
かわりに勉強してあげることも、かわりにいろんなことを経験してあげることもできないのです。

子どもは子どもの人生を自分自身で生きていかなくてはなりません。
そしてその人生に待ち受けるいろんな困難や苦しみを、自分で乗り越えていく必要があるのです。

ちょっと話がケガから大きくなりましたが、生きていると人間いろんなことが起こるものです。はじめての事態にも、これまで自分が経験してきたことから学んだことを総動員して対処していきます。
そんななか、経験は生きていくうえで大きな財産になります。
ですからなにごとも「じょうず」に経験することが大切になってくるのです。

子どもがケガをする理由

こけて泣く子1


話を保育園でのケガに戻しましょう。

子どものケガは、たとえお家で親が四六時中つきっきりで見ていたとしても100%起こらないとは言えないことです。保育園でも絶対にケガをさせないようにと、子どもを檻に閉じこめているわけではありません。
広い園庭であそべばお散歩にもでかけます。
部屋のなかでだって段差のある運動あそびもすれば、音楽にあわせて体操したりもします。

まだ体の使いかたを学んでいく段階の子どもたちのことですから、つまづいたり転んだりということはしょっちゅうです。
身のまわりの危険を予測するという能力も、発達途上。
こうしたらきっとこういうことが起こる。
大人なら簡単に予測できることも、子どもには見通せないことがたくさんあります。

ですから、保育園はもちろんのこと、お家でだって小さい子どもがケガをしないなんてことはほぼありえないことなのです。
そして、はじめにも述べましたが、まったくケガをしないということが、必ずしも子どものためになるとも思っていません。

あってはならないケガと、必要なケガ

もちろん、あってはならないケガも存在します。命の危険があったり、後々まで生活を害することになるようなケガは当然あってはなりません。
そういったケガや事故に関しては、保育者は防ぐことに全力を注ぎます。
事故防止の研修をしたり、ヒヤリとする事例を蓄積し共有することで、そういったことを未然に防ぐ努力をたえずしています。

ですが、それとは別に、体の使いかたや危ないことを予測することを学んでいくうえで必要なケガというのも存在すると思うのです。

段差で転んで痛い思いをしてはじめて、段差のあるところでは慎重に歩こうという気付きが生まれます。
テーブルで頭をぶつけてはじめて、頭を上げるときはまわりをよく見てからにしようという気付きが生まれます。

こうした失敗の経験の積みかさねが、子どもたちの身体能力や危機管理能力を向上させていくのです。

近頃の子どもたちを見ていて感じるのは、こうした失敗の経験の圧倒的な少なさです。

できるだけケガをしないように、すこしの傷もつけないように。

そうやって細心の注意を払いすぎるほど払って育てられた結果、さまざまに体を動かす経験が不足し、「そんなところで?」というようなところでびっくりするほど大きなケガをする子が増えている印象を受けるのです。

ただ転ぶだけでも、とっさに手がでなくて顔面からスライディングしてしまうような子もいます。ある程度の経験があれば「これは自分の手にあまることだ」と判断できることも、経験不足からその判断ができずに突っ走ってしまった結果とんでもない事故に巻き込まれる子もいます。

乳幼児期にちょっとのケガもさせまいと真綿にくるんだように育てられると、いざ大人の目が離れる年頃になっても、自分の命を脅かすほど危険なことが経験としてわかっていないということになるのです。

そうならないためにも、まだ大人がそばについて見守っていられる乳幼児期のあいだに、「じょうず」にケガをする経験をさせてあげる必要があると思うのです。

過剰な心配は保育の質をさげることも

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できるだけケガをさせたくないという親心もよくわかります。
ですが、するべきケガにまで神経質になってしまっていると、子どもの発達だけでなく、保育園や保育そのものにも影響を与えることになっているのです。

いくら保育園が軽微なケガは発達に必要な経験だと捉えていても、すこしのケガもさせないでほしいという保護者の声が大きくなれば、やはり保育園での活動も制限されたものになってきます。
悲しい話ですが、ケガでの保護者対応をしなくてすむようにと、乳児はほとんど運動させないといった施設の話も耳にします。

また、こういった保護者との対応のトラブルが頻発した結果なのか、いつ頃からかどんな小さなケガに関しても「事故対応報告書」といったものを作成しなければならなくなりました。どこでどうしてそのケガが起こったか、それをどう保護者に報告したか、報告をしたときの保護者の反応はどうだったか、防止するために今後どうするか、そういったことを「ケガがどれほど軽微であろうと」書くように行政指導されるのです。

もちろん、再発を防ぐためやより保育の質を高めるために報告書が必要なケースは存在します。しかし、園庭で転んでひざを擦りむいたとか、お散歩中にこけてちょっと手の皮がめくれたといった、本来であればお迎えのときに「今日こんなことがあってね…すみません」と話をすればすむような程度のことにまで文書の作成が必要になっているのです。

保育者は、子どもを見ているあいだはもちろん書類の作成なんてできません。そういった書類の仕事は、自分が休憩をとったあとの、子どもたちがお昼寝をしている時間などに行われるのです。
日誌を書き、伝達事項を書き、保育の計画を書き、さらに乳児のクラスであれば10分~15分おきに乳幼児突然死症候群予防のためのブレスチェック表の記入を行います。一人ひとりの子どもがちゃんと息をしているか、どちらを向いて寝ているかを表に記入するものです。
行事の準備などが必要な園もあるでしょう。
そこにさらに事故対応の報告書…。

保育者の負担は年々増えるばかりです。

なにか大きな問題が起これば、もちろんその対策は必要です。保育の質をよくするために本当に必要な仕事に関しては、保育園はよろこんでそれを行うでしょう。

でも、親と保育園が子どもの発達観を共有・共感できていれば、わざわざ作らなくてもいいような仕事・きまりというのは、じつはたくさんあると思うのです。

保護者や世間の声の向こうがわで保育園に課せられることにも、そしてそれが保育園の負担やひいては保育の質にどれほど影響を与えるのかにも、すこしだけ目を向けてもらえたらと思います。
(もちろん声をあげるべきこともあることは申し添えておきます!)

保育や子育てには、見守る勇気も必要

子どもの膝にばんそうこう

子どもの事故やケガは、親の心を大きく乱します。
自分の目の届かないところで起こったことならなおさら。

ですが、冒頭でも述べた通り、いつまでもまわりの大人が先回りして子どもを守り続けることはできません。子どもが自分ひとりで自分の人生を歩んでいかなければならない日は必ず来ます。

そのときに親がしてあげられることは、気持ちに寄り添ってあげることやどうすれば乗り越えられるのか知恵を貸してあげることくらいです。

いつかやってくる子どものひとり立ちのときに、子どもが自分でものごとに立ち向かっていける力をつけられるようにいろんなことを経験させておいてあげることこそ、真の愛情ではないでしょうか。

子育てや保育には、子どもの未来の姿を見通して、必要なケガをするのを見守る勇気も必要だと思うのです。


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