その人の生きてきた環境や他者の関わり中から導き出された自分の倫理観・自然観・死生観などの見方を「思想」と呼ぶのだろうか。 「思想」などという小難しい言葉はあまり馴染みがないですが、今日は少し踏み込んでみますね。 …………… 抑圧の中で芽生えた怒りの感情を、出す事も理解される事もまた受け入れられることもなかった人にとっての思想はどうだろう。 皆とは言わないが、その屈辱と鬱憤を出すことができなかった人が孤独のなかで作るそれは、自分の気持ちを晴らすかのように言動を正当化しがち
伝えるのってとっても難しい。言う方側と言われる方側、それぞれに強い気持ちがあるほど難しい。 分かってもらいたいと思えば尚のこと、ついつい語気も荒く感情的にもなりやすい。 「話し方」「傾聴」についての勉強会やセミナーなんかを受けてもそれだけでは上手くいかない。分かりやすさや繰り返し、頷くとか遮らないとか…完璧にマスターしたところで、その奥で感じている微妙な心の動きは、自分が大丈夫だと思っても相手には見抜かれてしまうことは多い。 大事なのは本気で話せること。嫌なことやダメだと
不安になる、どうしたらいいか分からなくなる。人間なら誰もが経験のあることだと思います。そしてその不安の度合いは問題にもよりますが、人によっても違うものです。つまり、不安が不安を呼びドツボに嵌りやすい人と、短時間で止まれる人。この違いはどこにあるのでしょうね? 不安を回避する、つまり不安に陥らないように策を練るのには限界があります。大事なのは、不安にならないようにするのではなく、不安をどこで止めれるか。 例えば生活の不安、具体的には働けない、お金が稼げないとか。過去の失敗体
以前、ある母親がこんなことを言っていた。 自分の子供A子ちゃんがB子ちゃんと遊ぶ約束をしていた。 ところがそのあとC子ちゃんからも遊びの誘いを受け、C子ちゃんと遊ぶことも了承、 その後A子ちゃんの家に、B子ちゃん、C子ちゃんが遊びに来た。 そこで問題が生じた。 B子ちゃんはC子ちゃんを仲間に入れようとせず、C子ちゃんを泣かしてしまった。 A子ちゃんは二人の仲裁に入りみんなで遊ぼうとするが上手く行かない。 お母さん曰く、A子ちゃんはいつも損な役回りばかりだという。 いつも巻き
腸は第二の脳と言われる。腸には意思があるとね。 例えば、緊張したり、その日、大事な会議や試験のある朝など、下痢してしまう経験はおありでしょう。旅先で便秘になったことはおありでしょう。腸は精神状態と密接な関係があり、自分の頭が思っている以上に、敏感で繊細・デリケートに反応します。 それを無視して酷使し続ければ、ハレーションを起こすのは当たり前。大丈夫だと過信して、脳の喜びに付き合わされ続ければパンクする。だけどもイライラやストレスで暴飲暴食・過食に走ってしまうこともある。
「おだてること」と「褒めること」は違う。知ってますって?そうですよね。「おだてる」ことってのは、よく、ホステスさんやホストさんがお客さんにする、あれね。 おだてられる方は、知ってても知らなくてもいい気分。だからついつい嬉しくなって楽しくなってお酒飲み過ぎちゃって、お金使いすぎちゃう。そうね、相手の思う壺ね。 おだてられる自分と相手との認識にズレがあって相手にコントロールされてる感じ。会社の上司やお得意先に対してもするかも。関係がやりやすくなるのが目当てなんですかね。これを親
おだてられると嬉しい。それが嘘だと分かっていても、「オレも捨てたもんじゃない」「私、いけるかも」「天才じゃん!」と、ポジティブ思考が膨らむのは結構なこと。やる気になって、それで結果に繋がるならなおさらいいね。 でも、おだてられその気になる魔法をかけられ、本当は登ってもいない木に登ったつもりでいると、大人になっていくにつれ何故だかなんとなく自信がついてこない。魔法だもの、溶けてしまう前にちゃんと真実を明かすか、本当にそうならないと、あとあと大変なことになりかねない。 しだい
褒めて伸ばすなどと、褒めることを伸ばすための道具に使うのはやめてください。単に褒めてください。認めてください。好きなら勝手に伸びていきます。至極当然の成り行きです。 褒められることを道具に使うと、褒められる為に、愛されたい為に頑張るようになります。 周りの目が気になります。常に頑張ることを強いられます。そうしなければ愛さない のメッセージを感じるからです。 だれもみな、ただ、そのままありのままの姿を認めてほしいのですよ。
コミュニケーションには2つあります。 いつ・どこで・だれが・どうしたという事象に対して、社会道徳的な ものの見方から善し・悪しを評価し合い、安心したり優越感を味わったり、卑下するか、励まし頑張ろうと勇気づけ合う会話。 この場合、必然的に、上に向かうことや頑張っている姿を善し、下がったり現状維持では怠け者、劣るという認識となります。 もう1つは、その事象に対して、お互いどう感じ、どう思い、どう考えるのか等の自分の主観を自由に語り合う対話です。この場合、お互いに『聴く』姿勢が
12月に入りました。 ワールドカップではスペインに勝利し決勝リーグ進出で日本中が沸いてますね。 皆さまいかがお過ごしでしょうか? 今年もコロナに追われ株価の下落から物価高騰、更に節電要請まで出ている日本の現状ですが、何はなくとも心だけはあったかくいたいものです。 さて、ひとこと… 人から好かれるより、人を好きになれること。 誰かに大切にされるより、誰かを大切に思えること。 そういう心があったかい。 そんな心のあることこそ宝物。 師走はあっという間に過ぎていきます。どう
母性って何? 母性とは、子供の気持ちをいじらないで見守れること。 聖母マリアとかマザーテレサとか、 なんか、自分が我慢し子供を受け入れ包み込む なんていうイメージがあるから、 そういう母親にならなくちゃ、 そう振舞わなくちゃと思うだろうけど、 母親だろうが自分を大事に生きていい。 自分が楽しむために、喜ぶために生きていい。 そういう姿勢を子供に包み隠さず見せるだけで、 それを子供に伝えるだけで、 子供は、自分も自分中心に生きていいんだ、 楽しんでいいんだ、となれる。 母親は
お客さんとこんな話になった。 小学校3年の時、体育の水泳の授業で、その先生はプールサイドから 泳げない私の頭を水中に押しつけた。 私は水が更に怖くなった。 小学校4年の時の先生は、プールに入り、私の手を引きながら ゆっくりと、リラックスするよう言われた。 私はその時間内に泳げるようになった。 この違い、お分かりでしょう。 水の中で目を開けたり浮いたりするのが、怖くないと解るのは 自分の体験・経験値でしかない。 つまり自分が、「怖くない」「平気だ」と体験できなければダメだとい
躾けにも通じることだが、カウンセリングのお客さんたちに対して、家族や私のようなサポーター、その立場の人の取るべき態度とは、 「決して見捨てない」 ことと、 「わがままは許さない」 ことだ。 しかも、それが 「証明もされない代わりに見捨てられもしない」と分かるまで徹底的に、だ。 それは根気もいれば覚悟もいる。 だから、どちらかが本気でなくなったら、それは成立しなくなる。
自分の子供が、細くて色白でおとなしかったとする。 親の意識の中に、「いじめられないようにしなくっちゃ」という思いがあったとすると、 子供に対して、「強くなれ、へこたれるな」と、厳しく育てるだろう。 もし、いじめられたら、「あぁ、やっぱり・・」という気持ちになりやすい。 親側に、「やられても仕方がない」という意識があると、子供を卑下し、 その意識が子供に影響を与えることになる。 親側に、「こうあるべき」の優劣意識が強いと、その意識を子供に植え付けてしまう。 つまり子供は、自己
躾けは、お躾け(押し付け)になってはいけない。 「躾け」とは、マザーアースのホームページの冒頭のあいさつ文にもありますが、「安心感の伝授」そのものだと思う。 それに必要なのは、躾をする親に安心感があることが基本であり、伝えるものは、「美味しい」「楽しい」「嬉しい」「心地よい」「気持ちよい」というような、「いい気持ち」です。 例えば、美味しく料理を作ることを躾けようとしたとき、そこに、料理の訓練はいりません。ただ心のこもった美味しい料理を食べさすだけでいい。 挨拶などの礼儀作
毒のある親が子育てをすると、子供に毒が移ります。いくら親が無意識だとしても、それは結果として毒を盛られたことになります。 その毒がジワジワと子供の心そして精神に影響を及ぼして行くのですが、それにかかる時間は知らず知らずに年単位で蓄積されます。 その毒が回った子供は対人関係で苦しみますが、それが毒のせいだと気がつくには更に時間がかかります。 やがて心をむしばみ、どうしてこうなったのか分からず、神経がズタズタになる頃には成人となり、問題行動が起きたとしても親に毒親としての自覚