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味わう

朝は、大体スムージーを飲む。すべてが粉砕されているのでほとんど噛まずに食べられるので消化はいい。
いい、はずなのだが、あまり胃が丈夫でない人にとっては、実は負担が掛かるものらしい。
実際、まさしく胃が丈夫でない私は朝9時頃にスムージーを摂ると、お昼過ぎまで満腹感が続く(まあ、一度に500㎖以上食べているので当たり前と言えば当たり前かも知れないが・・・)。
だが、しかし。
それでも、なぜか、満たされた感じがしないのだ。
素材によっては甘味があまりなく、甘い物好きの私にとってはそれが不満なのだろうかと考えていたが、最近になって何故満たされないのか、ふと、思い当たった。
素材の味を、感じないからだ。

スムージーにはいろいろなモノを入れる。
3種類ほどの果物、1、2種類の葉物野菜、手に入ったときはフレッシュハーブ。
そのほかに、いわゆるスーパーフードとか言われているモノを少々振り入れたり。
ブレンダーで粉砕するとすべてが渾然一体となり、素材の強さによって緑色とかちょっと赤っぽい色、白っぽい色とかになる。その、とろんとした液体は、甘いだけでない、酸っぱいだけでない、苦いだけでない、それぞれの果物や野菜が持っていたさまざまな繊細な味は混じり合い、「何となく」といった程度にしか残らない。
本来であれば舌の上に広がる、個々の素材の生命力とかエネルギーとかから醸し出される味わいは、スムージーにしてしまうと半減してしまうのだ。

モノを食べるという行為は、決して空腹を満たすだけではない。
食べ物の素材との味覚を通じた語らいや、食事をするときの環境なども含めて、すべて「エネルギーを摂り容れる」行為なのだ。
でも、「だから食事の時は食べることに集中してよく味わって食べよ」とは、言わない。
仕事の合間にちゃちゃっと食べなきゃいけないときもある。
子どもの面倒を見ながら食べることや、食事のサポートが必要な高齢者と一緒に食べるときだってある。
そんなときに、「食事に集中したいのに」「素材の味を味わわなきゃいけないのに」とか、悔しい思いやら罪悪感やらを覚えながら食べてしまったら、むしろそっちの方が消化が悪くなるだろう。

忘れたくないことは、「素材の味をきちんと感じる食事」が大事なのでなく「自分に与えられた環境を味わう食事」だということ。
ほんの5分のすき間時間に食べる食事なら、《気が急いている自分》、《あまり噛まずに食べている自分》、立ち食い蕎麦とか吉野家の牛丼とかを急いで食べるときなら《周りにいる同じように食べ物をかき込んでいる人々の中にいる自分》などなどを感じてみる。パンをほおばっているなら口の中がリスのようにぱんぱんになっている自分を想像して笑ってみたり、張り込み中の刑事のようだと、ちょっとあたりを鋭い目で見回してみたり・・・「急いている自分」だけに溺れず、それでもなお、状況を楽しんでみよう。
それができるようになると、きっと、食べているものにも気が向き、あ、今日の牛丼はちょっと甘めだとか、今日の卵サンドの卵焼きはふわふわだとか、ちょっとした変化にも氣付くことができるようになるかも知れない。
それが、エネルギーの交歓。生きていることの、歓び。

私の場合は、スムージーですべての素材をブレンダーに入れるのではなく、ちょっと消化しにくそうな部分(果物の皮とか、葉物野菜)だけを粉砕し、一部はそのままの形で食べることにしてみた。
バナナやリンゴの意外な酸味、ブドウのとろける甘さ、桃の爽やかな甘さと酸っぱさ・・・身体の細胞がちっちゃく踊っているような、沸き立つうれしさがこみ上げてきた。

そのものの、あるがままに。
すべてを全きの形で受け容れられなくても、ほんの一部だけでも、味わい、認めることができれば、次第にこの世界は本当の姿を見せてくれるようになるだろう。そんな風に思った。

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