「宝くじ」と「ご飯おかわり無料」は、同じだと思う
「"ご飯おかわり無料"に反応しなくなったら、社会人として一人前」
を胸に、これまで約20年やってきた。
中高を野球部として過ごした僕は、当時「ご飯おかわり無料」という看板に取り憑かれたかのように、そういった定食屋さんばかりに行っていた。
とにかく当時の僕にとっての、食事におけるモットーは、常に「安く多く」だった。
それから月日は流れ、僕も大学生(今は休学中)として、21歳の年を過ごしている。
高校生の時よりかは、随分とお金にも余裕ができた。というか、そもそもそんなに食べる必要性がなくなった。
ただ、それでも僕は時々とてつもない魅力を感じてしまう、「ご飯おかわり無料」というワードに。。
宝くじの話
話は変わりますが、皆さん、宝くじを買ったことはあるだろうか?
僕はやったことないので詳しくはわからないが、僕の誇る最強のTwitterタイムラインでは、宝くじは別名「愚者の税金」との愛称で親しまれているようだ。
どうやら、宝くじは当たる当たらないの以前に、胴元(?)にかなりのお金を抜かれているらしく、どうソロバンを弾いたって、確率的にはかなり確実に損するらしい。
でも宝くじ、皆さん買いますよね?特に年末とか、すんごい行列ができている。
で、リテラシーが一定水準以上ある人たちからしてみれば、あの年末の風物詩が全く理解できないという。
ただ、物事の背景には必ず「理由」がある。
僕なりに考えた仮説は、
「年末ジャンボの行列に並ぶ人は、'"宝くじ"ではなく"夢を見る時間"を買っている」
というものだ。
購入した僕の知り合いとかの話を聞いていると、なんだかすごい楽しそうに話す。「3億円当たったら、おれは堅実やからまず1億貯金するわ!」とか。
「当たったらどうしよう」みたいな期待、何をしようかという妄想の時間にこそ、彼ら彼女はお金を払っているんじゃないかというのが、僕なりの仮説。
極論を言うと、実際に当たるかどうかは、どうでもいいのだ。
タバコとかもそうだが、宝くじもよく、所得との相関うんぬんの話が出る。
もちろんそういう、理性やら論理的思考力やらと所得を結びつけるのもアリだと思うのだが、僕的には、所得が低くくて(大金持ちになるという)現実が遠いからこそ、せめて夢だけでも見させてくれ!というあがきなんじゃないかとも思う。
ご飯おかわりの話
で、「ご飯おかわり無料」の話に戻る。
僕は、ふと考えた。「どうして大学生にもなってまで、ご飯おかわり無料に魅力を感じるのか?」と。
実際、それでおかわり無料だかといっても、高校時代より胃袋も小さくなってしまい、結局2杯くらいしか食べられない。
にも関わらず、どうして僕は「ご飯おかわり無料」のお店に行き続けるのか?
そんなとき、僕はふと気づきました。
「あっ、これは宝くじと同じだ」
ということに。
つまり、僕が「ご飯おかわり無料」のお店に感じていた魅力は、物理的なたくさんの「白米」ではなかった。僕は、「(理論上は)無限にご飯を食べられる」という「想像」に、ワクワクしていたのだ。「ああ、僕はどれだけ白米をおかわりしても怒られない」と。
皆さん、腹ペコの自分が完食を気にせず、満腹になるまで好きなだけご飯を食べられる姿を想像したら、すごく幸せになりませんか?僕はなります。
僕は、この「幸せな未来」を想像できるがゆえに、「ご飯おかわり無料」のお店に入り続けていた。
まあ、「幸せな妄想の時間」というのも、立派な価値か。
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