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愛猫の死から慰められたみ言葉
2019年8月の出来事です。
16年間わが子のように可愛がってきた愛猫がお盆時期から急に後ろ足がしっかり立てなくなり、気になって病院に連れて行きました。
腎不全と診断されてから10日後のことでした。
8月26日夕方
家族皆で看取る中、愛猫が天国へ旅立ちました。
症状が出てからあっという間に悪化し、突然いなくなってしまった愛猫。
私の布団の脇にケージの中に寝せた愛猫と最後、一緒に寝ました。
翌日、ペット霊園に連れて行き最後の別れをしました。
その翌日、朝目が覚めたとき本当にもういないんだと
ここに愛猫がいない事実に
今まで感じたことがないような、心にぽっかり穴があいてしまったような
涙も出ず、ただただ呆然としていました。
それから呆然としたまま枕元に置いてあるスマホを手にとり
毎朝6時にスマホにおくられてくるよう設定したみことばを目にして
ハッとしました。
黙示録21:4
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも苦労もない
え?? 死はなく、悲しみも嘆きもない??
これってどういうこと??
黙示録を読んだことがなかった私は走って聖書を取りにいき読みました。
神様に 「私がいるよ」と 言われたような気がしました。
そしたら涙がポロポロポロポロ出てきました。
私は愛猫を失った悲しみのあまり、完全に神様のことを忘れていたことに気がつきました。
私には神様がいる。
忘れていた神様に対し、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
こんな私なのに慰めてくれた神様の愛を感じました。
その翌月、通常では、園児がいる私は夕礼拝には参加していなかったのですが、夫と私の父と息子で道東旅行に行ってる間に出席することができました。
私の中ではまだまだ愛猫の死が昨日のことのようで
平気な顔を装っていましたが、心の奥底では悲しみの只中にいたのです。
普段話せない信徒さん同士の交わりの中で私は愛猫の死について話をしました。
すると、「あー、猫ね。」と素っ気ない返答・・・
悲しみを共有する雰囲気になく、愛餐の席で近くに座った若い男性陣たちが私の気持ちを察し、飼っていた犬の死などの話をしてくれました。
後日、周囲の何名かに愛猫の死について話をしましたが、
他の人からするとたかが猫です。
でも、このとき、神様は人の心をご覧になるというどこかの聖書箇所を思いだし、言わずに私のことをよく知っておられるのは神様だけだと心から思ったのです。
後日、信徒さん宅での集いで愛猫の死について話をしたとき、
ある信徒さんが身内の死に直面し、どうしようもない気持ちのときに、全く同じ御言葉に慰められたと聞いて私は驚きました。
やはり神様は人の心をご覧になられるお方と改めて強く感じたのです。
私にとってはただの猫ではない。
わが子同然の愛猫だったのです。
そして、その会に参加されていた別の信徒さんからも慰められました。
マタイによる福音書10:29
二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。