綺麗で優しいままじゃいられなかった。 つむお
先日、三軒茶屋のシェアハウス「モテアマス三軒茶屋」が爆破した。
正確には爆破(退去)に向けたフェス、ということだったらしい。12時からスタートし翌朝6時までのタイムテーブルが壁に貼られ、外壁には「爆破」の垂れ幕がかかり、住民なのか住民じゃないのか僕には結局よくわからなかったけど、いろんな人が入れ替わり立ち替わり、どこかで何かをやったりやらなかったりしていた。いつでもご飯が美味しかった。
そんな中、僕はカメラを持って家の中や外をうろうろしていた。勉強部屋という名の社畜たちが血反吐はきながら時には歌いながら過ごしていた部屋で、「爆破」という大きな文字が刻まれた号外新聞を椅子の代わりにして、PCと編集ソフトと睨めっこしながら。
周年祭のたびにやってきた「撮って出し編集」。結婚式の最後とかで当日の様子が短くまとまって流れる、あれ。その撮影と編集だった。いつも祭の日が変わる前くらいに上映していた映像は、今回も無事に完成し、新たなちんぽニキが生まれたり警察が押しかけたりと、いろいろあったものの日が変わったあたりに上映した。
そして、後日、カズキタさんから連絡があり、こうしてモテアマスについてまとめる文章を書いている。
正直、過去の記憶はあいまいだし文章も別にうまくない。僕には映像しかなかったから、祭の撮って出し映像を分かち合うことが僕にとっての表現だと思い込んでいたけど、カズキタさんから話があったときに、あぁ、やっぱり、なんとなく書いてみようかな。と思えた。
僕のモテアマス生活は、ほとんど映像と(松屋とちょっとのクッキーと)ともにあるので、映像を見返しながらぽつぽつまとめていきます。後半は体力が尽きて写真ばっかりになったので見やすいと思います。
シーン1:3周年動画
モテアマスに来たいちばん最初は、たしか根来(まーくん)とだった気がする。
映像を仕事にするため山口から単身上京したはいいものの、右も左もわからず映像の仕事なんかあるはずもなく、寮があり貯金ができそうだからとやっていた派遣の契約も終わり、寮を追い出され路頭に迷っていた、そんな時だった。
山口の高校の同級だった根来に「代官山でカフェ始めるから遊びにこようぜ」って声をかけてもらい、カフェのコンセプトムービーを作ろうということになった。
泊まるところがないからということで代官山のそのカフェの倉庫でヨガマットを敷いて寝させてもらっていた。2ヶ月くらい?だったかな。たまに「代官山に住んでたことがある」ってネタに使わせてもらっている。
カフェの倉庫で目が覚め、開店の準備をたまに手伝い、撮影もして、閉店した後は根来と近くの銭湯によく行ってた。駆け出しの売れない〇〇、みたいで楽しかったな。実際そうだったし。
その時作った動画はこちら↓
カメラも持ってなかったから根来から借りてたな。なつかし。
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「Spice & Cafe famfam コンセプトムービー」
目標としていた仕事としての映像を作ることだったり、代官山に住まわせてくれたことなど、ホントに根来には感謝してもしきれないくらいだが、カズキタさんに紹介してくれたのも根来だった。
(さすがに甘えすぎて追い出されてしまっただけかもしれない)
そうして初めてモテアマス三軒茶屋のことを知る。
当時の僕は、家や仕事がなくても自分の力で生きていけるぜ、といった気風で、感謝感謝と口では言うこともあったかもしれないけど、心からホントに思ってたかどうかわからないくらいに、意気揚々と調子に乗っていた。
リビングでカズキタさんとたしかポールさんもその場にいた気がするけど、「モテアマス」や「R65」という名前を聞いた時に、なんじゃそりゃ、と文字面をそのままに受けて、若干バカにする気持ちを持ったことを覚えている。
周りと関わっているようでいて、自分のことしか考えていなかった。自分の知る世界の中で評価を下し、判断して、人それぞれに世界があることを蔑ろにしていた。なんで僕の思うように物事がすすまないのかと、本気で悩むこともあった。
モテアマスのことも根来から聞いていてなんか面白そうだなと思う気持ちはありつつ、屋根があって寝れる場所、ということがまずは大きかったと思う。
正直、他人に気を遣うことにおっくうさを感じてたし、ルールがないことは気楽でよかったけど、コミュニケーションが前提にあるモテアマスのあり方にぶっちゃけ苦手意識があったとも思う。
それは、他人に対して心を開いていなかったからなんだろうと今は思う。そしてその根っこには、自分のことを他人に知られること、ましてや自分自身で知ってしまうことの怖さ、があったのかもしれない。
自分の嫌な部分を人に見せるのが嫌で、自分自身もそんな自分を見たくなくて蓋をしていた。綺麗で優しい当たり障りのない辻村でいたかった。
そんな中で流れ着いてしまったルールのないシェアハウス。他人と関わらざるを得ない環境で、ある意味、修行の日々が始まった。
苦手意識を持つ環境で、どう自分が生きていくか必死になって考え、取り繕い、楽しむ時は楽しみつつ、人の目を気にしながら、人の目に触れないように部屋に閉じこもったりしていた。まぁ、結局1年前くらいにモテアマスの多拠点住民をやめる時も、そういう姿勢がなくなることはなかったけど。
人って不思議なもので、次第に環境へ慣れていく。こういう場所もあるんだなと自分だけの世界だと思っていたものがゆっくり、少しずつ拡張されていった。当時は相変わらず映像の仕事もなく工事現場の日雇いバイトをしていて、夜な夜な駅に忍び込んでは爆破していたから、そういうのも相まって固執した価値観が瓦解されていったのかもしれない。知らんけど。
そんなこんなで、世界は少しずつ広がり、映像の仕事もアシスタント的にしながら、結婚式の映像撮影にも関わるようになった。その時やり始めたのがいわゆる「撮って出し映像」だった。
当日撮影したものを、会場の控え室で編集して終わりに流す。スリリングで面白いじゃん、というのと、仕事としてやるにはちょっと気が狂ってるんじゃない?、という気持ちと、やれる仕事があるならなんでもやります、という気持ちでやっていた。
そして、モテアマスでは周年祭というものをやるという話を聞き、住民たちがどう遊ぼうかと話し始めた時に、なんとなく、当日撮影して当日流してみようかな、と思った。仕事では撮影のサブ的なポジションでしか関わっていなかったから、メインでの撮影と、編集は初めて。
チャレンジだった。
そうして出来上がった動画がこちら。
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「モテアマス3周年で大混乱」
いま見返すと、手ブレが気になりすぎるし、同じ人いっぱい出てくるし、カットの長短もメリハリがなくて飽きそうになるし、見返すのもちょっと恥ずかしくなるけど、こうして見返せるし、頑張って作ってよかったなと思う。
この時だけは、何か別の大きなものに向かってみんなが動いてる感じがあったのか、住民と住民以外の人たちとの垣根が少しやわらぐようで、それぞれがもつ執着が溶け合うようで心地よかった。
そんなみんなが映ってる映像をみんなの前で流して共有できることは楽しかったし。
シーン2:コロナとシェアハウス対談動画
そんなよくわからない、ぶっちゃけストレスさえも感じるシェアハウスで、個の拡張と収縮を繰り返しながら生きていると、今度はコロナさんという人が大いに圧政をしいてきた。理不尽なほどに、いろんなことがストップした。結婚式もできなくなって撮影もなくなり、工事現場も駅の爆破よりソーシャルディスタンスを優先した。
コロナさんはコロナさんでいろいろあるんだろうけど、僕ら社会の中ではいろんな波紋が起こったように思う。
モテアマスももちろん影響はあったようだけど、そこはやはりモテアマス。
M4(無職4人組)が爆誕し無職同士なのに木材を削るバイトが生まれたり、普段から莫大な備蓄があったので街中から物資がなくなっても特に関係なかったり、1世帯に配られた数枚のよくわからないマスクと比較にならない量のモノタロウマスクがリビングを舞ったりと、モテアマスらしい形で遊びに昇華された。
その一環で、新たにやってみようぜと生まれたのがシェアハウス紹介の対談動画。コロナさんによって、Youtubeや配信が一気に浸透したタイミングだった。
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「どこにも話していないマトモなモテアマスの話。」(全4回)
始まった理由はいろいろあるんだろうけど、個人的には、裏でいろんな気遣いをするコミュ障イケメン大家が、仕事の無いいちクリエイターのことに気をかけてくれてたのが大きいんだろうなと勝手に思ってます。実際はどうか知らんけど。
(というか、コミュ障不動産、登録者数1900人超えてるやん。ポールさんすげえ。)
これも面白かったなぁ。ぞのとも協力して、テロップもいっぱい手伝ってもらった。
寝起きのカズキタさんが3本目4本目と話が進むにつれて饒舌になっていくさまも見応えあり。特に、モテアマスを支える2人がどんなことを思っていたのか垣間見えるのがよかった。
そういえば、この頃から「モテアマスは概念だ」って言ってたな。
ホントに概念になるんだな。
シーン3:4〜7周年と、爆破フェス。
思った以上に文量多くなってきたので、あと記憶もあいまいなので、あと書くのもちょっと疲れてきたので、ここからはダイジェスト的に、動画を切り出しながら振り返ってみようと思います。
そんなこんなで、モテアマスの4周年と、5,6はなぜか飛んで、7周年の動画も撮って出しを実行。まずは4周年。
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「私立モテアマス学園文化祭(モテアマス三軒茶屋4周年)」
モテアマスが学園になったのはこの頃でしたね。
テントサウナブームきてました。コバさんの福江島グッドニートハウスにもまた遊びに行きたい。
今はなき、奴隷部屋の生まれる前。龍偉はDIYしたいから引っ越してきたんだっけ。やりたいことができてよかったよね。
兄弟。ぽんちゃん、アドベント記事めちゃよかったよ。
シーン4:7周年動画
続いて、7周年。
5周年、6周年、何してたんだっけ。ホントに記憶にない。
ちなみに、僕はその間に5日住民になったり、インドからきた刺客の人たちの協力をあおいで “ゆとりごっち祭” なるもののクラファンをしたり、鯖江の祭りに乱入してみんなに坊主狩りさせたりしていた。なつかさん、乱入させてもらってありがとうね。
「一狩り行こうぜ、500円で。〜ゆとりごっち祭のクラファンの一幕〜
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「モテアマス三軒茶屋7周年」
先日行われた爆破フェスは160万?くらいの予算で開かれたらしいけど、この7周年ぐらいから予算規模がシェアハウスのイベントじゃないぐらい大きくなってたような気がしてる。
(ちなみに、冒頭の声は、同じ社畜フリーランス仲間だったせいや。爆破フェスも一緒に勉強部屋で作業してました。ホントにおつかれさま。みんなぜひアーカイブサイト見てね。すごいよ。
「魔観光作法 | モテアマス三軒茶屋」
そして、カズキタさんからの発表。当時からみて1年後(明日10月31日)、モテアマスが終わる、という内容。当の本人よりも誰よりも、涙しながら熱く想いを語っていたマキタさんの姿が印象的だった。ポールさんは酒で潰れてた。
当時カズキタさんの書いた記事があるから読んでね。
ラストシーン:爆破。そして、、、
周年祭の撮って出しを続ける中で、いずれモテアマスの最後がくる時には撮って出しをやろう、そう決めていた。これが何になるかはわからないし、当日いいものをまとめられないかもしれない、という不安などもあったけど、どうあれ、僕がやれるのは、やりたいのは、これだな、と。
根来(まーくん)にカフェで拾ってもらって最初に東京で映像を作った時、住む場所はなかった。住む場所がなかったから作れたともいえる。そして、モテアマスという、よくわからない、自分の知らない世界線だったシェアハウスで、映像を作ってきた。
住処と作品作りは密接に関わっているのかもしれないとふと思う。
リスクをかえりみず無鉄砲に走りながらも、どこかで安心を求めていたあの時の自分だからこそ作れた作品があるし、住む場所が見つかったにも関わらず安心とは程遠い文化のモテアマスで過ごし、自分という型が無理矢理でも壊され、壊れたからこそ見えてきた型もある。
わかりやすい境界線を引き、こっち側とあっち側と線引きすることは簡単だけど、線をはずしたとえ面倒や衝突が起こったとしても、それを乗り越え混じり合った先に、1人じゃみれなかった世界があることを知った。
いろんなきっかけはあれど、本来安心できる場であるはずの家(シェアハウス)で変化を求められたことは、すごく大きな影響だったと思う。
拠り所との出会い、そして、破壊。
結局、半年前にモテアマスを出る時も、綺麗で優しい辻村でいたいという姿勢はもちろんあったと思う。でも、モテアマスに向き合うには、知らない世界に向き合うためには、綺麗なままじゃいられなかった。だから髭も剃らずに爆破フェスへ向かった。
よくお世話になっている方から
当たり障りのない優しさは
時に他人を、自分を傷つけるということも学んだ。
仲のいい人もいれば仲の悪い人もいる、同じ家に住んでいる。
そんなモテアマスから感じる優しさは
ちゃんと向き合おうとする姿勢から生まれるものだったとようやく知った。
頭での理解だけじゃなく
身体をもって、心に染み込んだ経験をもって
向き合いたい時には
汚いところも隠さず、
嫌なことは嫌と伝えて、
ぶつかっていこうと思います。
概念として残ったモテアマス。
そのマインドを持った住民やその仲間たちが
今後どうなっていくのか、楽しみです。
爆破フェス(7.9周年)の映像は、カズキタさんから共有されることでしょう。
モテアマス民たちの息づく、
家としての最後の姿を思い出せる。
そんな映像に、なればいいな。
おわり。
最後に告知です
2024年10月26日、ついにモテアマス三軒茶屋爆破フェスが決行されました。
サイレントフェスや伝説のすた丼など、盛りだくさんのコンテンツを詰め込んだ爆破フェスは、大量の来場者ですし詰め状態になり、三茶のインドを体現するカオスを極めたフェスになりました。
しかしここで皆さんにお願いがあります!!
爆破クラファンは100人を超える方々に支援していただいたものの、爆破フェスを豪華にやりすぎたせいで絶賛大赤字を記録しています。
黒字になるまでクラファンは続行します!!
新しいリターンも用意しているので、ぜひ引き続きご支援をお願いいたします。
🔗 クラファンリンク: