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所有についての覚書


覚書

自分の買った食材だけで作った料理は所有しておきたくなる。食べられると、ちょっとだけモヤっとしてしまう。

誰かの料理をいただいた時、せめて鍋は洗おうと思う。出かける前とかでバタバタしていて洗えなかった時は、申し訳なくなるし洗わなかったことを納得してもらえる理由を考えている自分がいる。

何かをあげる時、それがまだたくさんある時はあげた人がどのくらい使ったか気にならない。けれどあげて物がなくなった時、あげたことが意識にのぼる。

安い、余っているものが分配される。中華料理やカレーが分配される。フレンチや寿司は分配されない。作るのに特殊な技術が必要だったり、新鮮で保存のコストが必要なものは分配されづらい。(パーティを開いて、その場で食べ切る場合はしゃぶしゃぶや、寿司を食べたりすることはある)

少し高い私物や、使い方が初見では分からないものはシェアしない、リビングに置いておかないようにしている。ちょっと高いドライヤーとか。前持っていた安いドライヤーは、前のシェアハウスで共用物化していたけど、2年くらいして壊れた。

ある人は洗面具、風呂用具をすべて自分の部屋に置いて、毎回持っていって使っている。

ある人は毎日惣菜を買って冷蔵庫を介さずに食べている。

何のための所有?


ある人は「稼ぐのは所有するため」と言っていた。モテアマスの文化的には「与えるため」だと思う。

ある人は「もらいすぎて申し訳なくなるというのがインストールされていると思っていたけれど、そうでもないと知った」と言っていた。

ある人は「与える人たち同士だけで与えれば良い、餓鬼道の人に与え続けても虚しい」と言っていた。

ある人は「ご飯を作って食べてもらうのが好き」と言っていた。

ある人は「自分は運が良いだけ」と言っていた。

問いたち

・モテアマス的所有の倫理になるのはどのような背景があったのか?住んだからといって、誰しもその倫理になるわけではない。
・今の日本は一人一人が所有をしておかないと不安な世の中なのか?どうやったら「与えた方が得」な文化になるのか?
・安い野菜たちは、なぜ安いのか。あるいは、余裕を持って与えられる土壌には経済合理性の結果の安いものたちが必須なのではないか。
・贈与論的には贈与は毒でもある。誰かが作ってくれた料理ばかりを食べるように、その毒を受け続けるとどうなるのか。
・与えられる人はなぜ与えられるのか。何が違うのか。与えることがストレスになることはないのか。あるとしたらどんな時にストレスを感じるのか。
・料理じゃなくても、所有し続けると概念として腐ってしまうということがあるのではないか。それこそ、タンス預金のように。
・絵など、売る時に初めて価値が可視化されるものがある。与えるときに初めて価値が生まれるのではないか。

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