聖人が住むシェアハウス
モテアマスに住み始めて約半月が経過。
慣れたかと言われれば、慣れない。
住めるかと聞かれれば、住めない。とまだ答えるだろう。
しかし、毎日奇想天外な発見があるのが面白くなってきてしまっている。
そのひとつとして、モテアマスには何人か聖人が住んでいる。という発見がある。
聖人とは、一切の見返りを求めない人のことである。
例えば、
モテアマスの冷蔵庫は無秩序だ。共用の冷蔵庫に入れたとたん、”フリー”の食材となる。名前を書いても関係ないらしい。だから、冷蔵庫に入っている食材は誰でも食べて良い。調味料も使って良い。完全にフリーである。
逆にいうと、食材や調味料を誰かが買ってきているわけである。誰かが買ってきた食材を使った分、何かを買って冷蔵庫に入れておく。そのような構造が自然につくられている。
しかし、そんな様子を見ていると、明らかに「Give」している人と「Take」する人の差が激しいのだ。
よく食材や調味料を買ってきてくれる人がいる。
よく料理をふるまってくれる人がいる。
よく溜まった食器を片付けている人がいる。
その人たちのおかげでモテアマスが成り立っているともいえる。
それなのに、何も異を唱えない。
「別にいいよ」「気にしない」というばかりである。
物凄くお金持ちというわけでも、毎日ヒマというわけでもない。
特別に褒められたり、勲章があるわけでもない。
ごく普通に、当たり前かのように、やっている。
”冷蔵庫問題”だけでなく、
よく掃除をしてくれるひとがいて、
よくゴミを出してくれるひともいる。
そもそもモテアマス自体だって、三軒茶屋なのに価格設定が安すぎて大赤字だ。なのに、価格もあげないし、そればかりか日用品まで提供してくれる。
損得勘定をするならば、明らかに損をしている。
「人が良すぎる。」と表せばそれまでかもしれない。
しかし、その言葉にはしっくりこない。
本人たちは、ごく当たり前かのようにやっているわけなのだから。
人助けをしているという感覚でも、犠牲になっているというわけでもない。
親が子供に夜ご飯を食べさせることに「人が良すぎる」とは言わない。
それと同じような感覚である。
しかし、もちろん本当の親ではない。親族でもない。
言葉で表現しきれないほど非常に不思議な感覚だ。
なぜそんな感覚になるのかを問うことすら不問である。
でも、そのような人たちを見ていると、少しづつ感覚が分かるような気がしてくる。
人と人との繋がりの根幹の部分が見えてくる気がする。
だから、類は友を呼ぶような人が集まってくる。
もう少しその感覚を知りたいと思ってしまう。
だから、今週も住んでしまうのだ。
インターン住民日記3。
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