第2話 白雪麗です

 少女の声は、まるで秋の爽やかな風のように。
 そして鈴の音のように透き通った、凛として響く、そんな心地の良い声音だった。

「よ、よろしければ私が描いた漫画、読んでもらえませんか」

 少し緊張した面持ちで、少女は僕を見つめる。そして願いを言葉にした。

 それにしても不思議な感覚だ。眼前に立つこの少女に見つめられていると、その瞳の中に吸い込まれてしまいそうになる。それ程に、彼女の瞳は魅力に溢れ、純粋な光を放ち、希望に満ち溢れていた。

 まるで万華鏡のような、そんな瞳。

「漫画を読むって、僕が?」

「はい、そうです」

 そして少女は言葉を紡ぐ。

「私、隣のテーブルに座ってたんですけど、先程、あなたが漫画編集者さんだっていう会話が聞こえてきたんです。それでぜひ、私の漫画をぜひ読んでご指導いただきたいと思いまして。それで思い切って声をかけさせて頂きました。あ、盗み聞きするつもりはなかったんです! たまたま耳に入って!」

「僕はもう編集者なんかじゃないよ。元、漫画編集者。今はくだらない毎日を過ごすただのフリーター。ただの、ね。だから読まない」

 僕は頬杖をつきながら、投げやりに冷たい態度で言葉を返す。それを聞いて、少女は肩を落として「そう、ですか……」と、小さく呟く。落胆の色を滲ませて。

 我ながら大人げないと思う。まだ高校生くらいの子供に、僕は何をかりかりしているんだ。さすがに少し罪悪感を感じてしまう。

「兄さん、そんな冷たいこと言ったら駄目じゃないですか。この子が可愛そうですよ。読んであげましょうよ」

「うるさい、小林は黙ってろ」

 漫画の編集はもうしないって決めたんだよコンチクショウ。

 そりゃ好きだよ、漫画の編集とか指導は。でもそんなことしたら、また業界に対して未練を抱いてしまうかもしれないじゃないか。

 正直、それが怖いんだよ。

 でも――

「う、ううう……」

 肩を落としたまま、少女は今にも泣き出しそうな顔でその場を動かない。目をうるうるさせるな! レディーを泣かせて喜ぶような趣味は、僕にはないんだよ!

「はあー……」

 僕は溜息をひとつ。より罪悪感が増してくるじゃないか。なんとなく感じてはいるんだよ、この少女は勇気を出して僕にお願いしてきたというのは。それに、このまま帰してしまったら気になって眠れなくなってしまう。

 全く、仕方がないな。

「……原稿、今あるの?」

 僕のその言葉に、少女はパアッと顔を明るくさせた。

 分かりやすいな、この子。感情をストレートに顔に出してくる。きっと性格も素直なんだろうな。万華鏡みたいな瞳だと感じたけれど、表情までそんな感じか。

「あります! 原稿、今、あります!」

 言うが早いか、少女は自分の席にダッシュ。そして、手にプラスティック製のハードケースファイルを持って戻ってきた。嬉々として。いやいや、隣の席でしょ? そんなに急いでダッシュする必要ないでしょ。

「これです! この中に原稿入ってます!」

 なんだか、すごく必死だな。目をキラキラ輝かせてるし。

 ――いや、当たり前か。編集部に持ち込みにくる人達もそんな感じだった。緊張していてガチガチな子もたくさんいたけれど。

 夢を追いかけている人は、皆んな必死なんだ。

「それじゃ、受け取らせてもらうね」

「は、はい! ありがとうございます!」

 そして少女は深々と頭を下げる。いや、僕はあくまで『元』漫画編集者なんだ。そんなに感謝しなくても別にいいのに。

「それじゃ、僕の向かいに座ってもらえるかな」

「は、はいっ!」

 少女はテーブルを挟んで向こう側――小林の隣に、ちょこんと腰を下ろす。そしてファイルの中から原稿を取り出そうとする僕に、キラキラと期待の眼差しを向けた。そんな期待するなっての、やりづらいだろうが。

「良かったですね、兄さんに読んでもらえることになって。余が今から喜びのダンスを踊ってあげますね」

「踊るな小林! 他のお客さんに迷惑だろ!」

「あ、その喜びのダンス、私見てみたいです」

「キミもそんなこと言っちゃ駄目! コイツ、本当に踊るんだよ! 場所とか状況とか関係なく! 職場でも踊ったりしてるんだぞ!」

 僕の一喝で二人がシュンとしてしまった。まあ、小林は分かる。でもなんでこの子までシュンとするんだよ。しかし、なんというか。この子って自分の欲望に忠実だな。表情もころころ変わるし、やたらと行動的だし。

 ちょっと面白いと思っちゃったじゃないか。

「ちなみに君、名前は?」

「は、はい! 白雪です! 白雪麗といいます!」

「白雪さんね、よろしく。僕は響といいます。響政宗」

「響さん、ですね。よろしくお願いします!」

 目を爛々と輝かせて、少女――白雪さんはぺこりと頭を下げた。

 もう二度とすることなんてないと思ったんだけどな、漫画の指導だったり添削だったりっていうのは。でも引き受けたからには全力で読む。作家さんの情熱に負けている編集者なんかには、絶対になりたくない。……まあ、今は『元』編集者だから本当はもうそんなこと気にする必要ないのだけれど。

 僕はケースの中から原稿を取り出す。インクの匂いが鼻孔をくすぐった。なるほど、紙原稿か。今どきの子にしては珍しい。最近はデジタルで執筆する漫画家さんがほとんどだから。まあ、僕はデジタルよりも紙の方が好きだけど。

 さて、と。念のために訊いておくか。

「ねえ白雪さん、この原稿は元編集者としての目で読んだ方がいい? それとも響政宗という一個人として読んだ方がいい?」

 僕の質問に、白雪さんは不思議そうに首を傾げた。

「えと、どういうことですか?」

「元とはいえ、編集者の目で読むとなれば、それなりに厳しいことも言わなければならないんだ。白雪さんにそれなりの覚悟がないとちょっと辛いと思う。だから一個人として読んで感想を言ってほしいなら、先に教えておいてほしい」

 編集者というのは作者と読者の中間に立ち、いかに客観的な目で読み、そして客観的な感想を伝えるか。その必要がある。必然、厳しい意見も言うこともあるわけだ。その意見を聞く覚悟、つまりは現実を突きつけられる覚悟があるのか。

 僕はそれを白雪さんに確認したかった。

 けれど、白雪さんは動じなかった。
 むしろ、先程よりも目を輝かせていた。未来を見ていた。

 まるで、昔の僕のように。

「もちろん、編集者としての目で読んでほしいです」

 第2話 白雪麗です
 終わり

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