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【月間noo】5月すききらい【2024.5月】

《月刊noo 2024.5月号 目次》
・ごあいさつ ~はじめに~
・ソ連邦のおもひでエッセイ:『金髪碧眼のセルゲイ②』
・短編:花のかおり
・公演案内:nook.noo.vol1『Reading&Live』公演について
・ごあいさつ ~おわりに~

5月は好きな季節です。
陽が温かく、新緑が目に優しく、空の青も濃くなってきて、お天気のいい朝や日暮れ時に近所の公園のベンチに座って、花の香りをそこはかとなくまとった風の匂いをかいでるだけでなんとなくよい気分になる、そんな季節。
そして同時に…
大気が!気圧が!天気が!特に近年、不安定気味。昔からよく5月の不調は「五月病」なんて言われていますが、年々五月病のレベルあがってってません?そのうち五月魔王くらいに進化するのでは?
私も…鍛えるしかない!どこを?三半規管を!どうやって?!
(鍛え方、知ってる方がいましたら真面目に伝授して欲しいです)
物事にはつねに表と裏があると言いますが、人の五感に優しく自立神経に厳しい、そんなアンビバレントな5月を愛でつつ、今月も更新していきたいと思います。

ソ連邦のおもひでエッセイ:『金髪碧眼のセルゲイ②』


セルゲイには、母も私もよい思い出がたくさんある。
子供の私は車でどこかに連れてってもらう時くらいしか接点がなかったけれど、父親の運転する車より、セルゲイの運転する車に乗る方がずっと好きだった。
ソ連邦の穴だらけの道路でも、車が変に跳ねて気持ち悪くなったりしたことがない。セルゲイの加速と減速の加減が絶妙な滑らせるような運転だと、穴ボコロードも舗装された道路のごとくスムーズになのだ。
私や妹がふざけて、車を運転中のセルゲイに
「セルゲイ!ブィストラ!(はやく!)ブィストラ!(はやく!)」
と発破をかけると、
「ニェット、ワカノイ、ニェット」
※ニェットはロシア語でNOという意味。
と、生真面目かつ穏やかに返事をしてくれた。

妹はセルゲイが好きで、家まで車で送って貰った時はよく寝たフリをしていた。そうすると、セルゲイが抱っこして部屋まで運んでくれる。(今思えば子供の狸寝入りなのでバレてたと思うが)
私は一応姉としてのプライドから、妹のように狸寝入りして運んでもらう…という作戦にはでれなかったのだけど、正直羨ましかったし、妹をずるいと思っていた。小学生の時の2歳上、というのは当事者にとっては大事で「狸寝入りなんて子供っぽいわ」なんて、手の届かない葡萄はすっぱい、みたいなことを思っていたのだが、今思えば私も子供だったのだから、謎の痩せ我慢をするくらいなら、一度くらい狸寝入りしてセルゲイに抱っこで運んでもらったらよかったと思う。ぜんぜん深刻ではないけれど、このことはちょっとした私の人生の悔いだ。

母から聞いた話で私はあまり覚えていないのだけど、母や私達が日本への一時帰国から帰ってきてシェレメチェボ空港まで迎えに来て貰った時、セルゲイは薔薇の花を1輪もってゲートで待っていてくれてたらしい。気障な感じだけど、きっとセルゲイなら嫌味なく似合ったと思う。本当に、俳優のように甘いマスクだったのだ。

もう一つ、これも母から聞いた話だ。
セルゲイは日本語はわからない、ということで、母はずっと英語かロシア語でセルゲイとやり取りをしていた。私もセルゲイが日本語を話しているところを全然聞いたことがない。
だけどある時、母がセルゲイの運転する車の後部座席に座って、ふと「今何時だっけ?」と独り言を言ったら、「◯時◯分」と、運転席のセルゲイが答えたことがあったという。
日本語ができないはずのセルゲイのその時の発話は、とても流暢だった。
母はそのことを深追いしなかったし、セルゲイもそれ以上は話さず、その事件以降も日本語は喋れないしわからない、というていで運転手を続けてくれた。
母の記憶では、セルゲイが日本語を話したのは、その時いっかいきりだったという。
もしかしたら、セルゲイは本当は日本語を理解していたのかもしれない。
あの有能さと美形っぷりはただものじゃない、なんて冗談で噂されることがあったセルゲイは、もしかしたら運転手になる前にもっと別の仕事をしていたのかもしれない。
ソ連邦の崩壊前後、ソ連邦時代に要職についていた人が職を失ってブルーカラーになることはままあったし、まことしやかなスパイの噂もあった。
それもこれも憶測でしかないのだけれど、一つだけ確かなことがある。
ソ連邦崩壊で進路が狂った訳ありな過去があったとしても、単純にめちゃ有能な市井の運転手だったとしても、セルゲイは私達家族にとって、ずっと大切な隣人だということだ。

短編:『花のかおり』

春先にいつものように風邪をひいて、治ったと思ったら生活から匂いが消えてしまっていた。
風邪をひいてる間は鼻詰まりのせいだと思っていたのが、どうもそうではないらしいと気がついたのは朝にコーヒーを淹れた時で、友人が京都旅行のお土産に渡してくれたイノダコーヒーのドリップパックに、最初にお湯をちょっとだけ注いで蒸らすといういつもの工程をなぞりながら、違和感が小石のようにぼんやりした意識のどこかにひっかかったからだ。
よくすることをいつものようにやっていただけの私は何にも集中していなくて、そのそよぐような違和感もすぐには言葉にできなかった。
だから二回目のお湯を注いで、カップからたつ湯気にスチームサウナを受けるみたいに顔をひたしたときにコーヒーの香りがしないと気がついたときも、ごく軽く驚いただけで、深刻さはぜんぜんなかった。
4回にわけてお湯を注ぎいれ、最後に牛乳を少しだけ注ぐ。イノダコーヒーを飲むからと、少し前に買っていた普段よりお高めの牛乳は、熱くて濃いコーヒーともったりと混ざり合いながら、水泡のような脂肪の粒をいくつか浮かべる。
一口飲むと、キレのいい熱さと口内を柔らかくなめすような感触はあったが、ドリップパックでも私にとっては充分香りたかいイノダコーヒーの香ばしい香りはわからなかった。試しにコーヒーを口に含んだまま鼻から息をしてみるが、スウスウとした空気が出たり入ったりするだけだ。
香りがわからないと、味がこんなにしないのか。
聞いてはいたが、自分で体感するのは初めての現象に、少しだけ気分が浮く自分がいる。
非日常。
コーヒーの熱さと感触と、香りの記憶を味わいながらスマホを操作して、近所の耳鼻科を検索する。今日がお休みでよかったと思う。
気分は嗅覚が消えたという非日常で浮いているが、頭の冷静な部分は「これはよくない」と普通に冷静に思考して、私の右手にスマホを操作させている。
子供の頃から、入院するほどじゃないけど週5で学校にはいけないという中途半端な体の弱さのせいで、病院にはかかり慣れている。春先は特に体調を崩しやすいので、先月と今月だけで5つ病院に行き、10種類以上の薬を飲んだ。
家から近い内科、少し遠い精神科、職場近くの内科、皮膚科、飛び込みではいった循環器科。
耳鼻科は久しぶりかもしれない、と思いながら、地名と耳鼻科のワード検索で出てきたクリニックの午後の診療予約をすませる。ホームページからwebでささっと予約できるのがありがたい。ゆっくり飲んでいたコーヒーは少しぬるくなって、そうなると香りがないのが余計に、文字通り味気ない感じがする。よせばいいのに、スマホで「嗅覚 とつぜんなくなる」を検索してしまう。素人がネットで気になる症状を検索してもろくな気分にならないことを何度も何度も体感してるはずなのに、いまだに懲りずに同じことをしてしまう。今回は、風邪のあとで嗅覚がなくなる症状は中年女性にありがちで予後が悪い、というページを見つけてしまい、やっぱりろくでもない気分になった。ためしに掃除で使っているハッカの小瓶をあけて匂いを嗅いでみる。いつもなら上顎がグリーンになりそうな清涼感のある香りが感じられるのに、今は無味無臭の空気を吸っているのとかわらない。その体験はフレッシュではあったけれど、あまり幸先良いことではないだろう、と、やっぱり冷静に思う。
普段は「ある」ということさえ意識したことのない自分の感覚の一部が「ない」ということ。その非日常を頭からまるっと味わえない、慎重で弱気な自分がいる。
お昼ご飯には自分の嗅覚が「ない」ことに抗うみたいにキムチのチャーハンを作ったが、普段とくらべて全然味気なく、私は嗅覚が「ある」ことの威力を知った。匂いがないと、辛味成分の奥からまろびてるキムチの旨味がまったく感じられない。
(この状態はダイエットには適しているかも)
そう考えて、弱気なのに呑気な自分が少しだけ愉快になったけれど、その愉快な気持ちは重たい灰色の曇天にできる雲の切れ目のような頼りない明るさだった。

駅から近いそのクリニックに行ったのは初めてで、待合室はお年寄りで混雑していた。webで予約をしていったので割合すぐに順番がきて、ものものしい椅子に座らされる。てっきり何か鼻に棒とかいれられるのかと思ってビビったけれど、向かいの医師は普通に問診と喉の奥を見ただけで私をその椅子から解放した。
「あの、嗅覚がないんですけれど」
風邪と言われて帰されそうになって、慌てて声に出す。
「嗅覚がない」
オウム返しに言った医師が私に向きなおる。
「いつからですか?」
「たぶん今朝から」
「今どんな感じですか?」
「コーヒーの匂いもハッカの匂いもわかりません」
「では検査しましょうか」
流れるように、まるで私の嗅覚が消えていたことなんて最初からわかっていましたよ、とでも言うように、医師がそばにいた看護師に検査の指示をだして、別室につれていかれる。
親切そうな看護師が、血管にニンニクの香りのする薬を注射して、何秒でニンニクの香りを感じられるかどうかの検査をするのだと説明してくれた。
説明しながらもテキパキと私の左腕をとって台にのせ、袖をまくり、肘の内側の薄い皮膚をペシペシと叩く。
「うん、いい血管もってるね」
「恐縮です」
あれ、変な返しをしちゃったなと思ったけれど、看護師は注射の準備をしていて私の返事を気にしていない。
「アルコールのアレルギーはありますか?」
「ないです」
簡単なやり取りのあと、お馴染みの「少しチクリとしますね」の声かけをされ、看護師のてさばきで銀色の針が皮膚の下にくぐりこむ。痛み、というほどのものでもないチクリが薄い皮膚の裏表に生じて少しだけ息を吐く。
「はい、ではお薬はいりまーす」

ニンニク注射の後、鼻と喉から何やら吸入するという措置をされて、医者からは神経は大丈夫だろうと言われ、薬と点鼻薬を処方された。
「仰向けになって、なるべく頭を後ろに傾けてください。薬いれても喉に流れちゃうと意味がないので。上顎の奥に塗るイメージで…仰向けのまま頭を左右にゆっくり傾けるといいかもしれませんね。薬が広がるので」
医師の親切な説明に、点鼻薬ってアクロバットだなぁと思いつつ、お礼を言って病院をでて、すぐ目の前の薬局で処方箋をもらう。このすぐ目の前の薬局の他にも、道一本むこうにも、ここから徒歩5分くらいの駅前にも、今年頭にはいっていた本屋が潰れたビルにも薬局がある。このあたりは薬屋だらけで、私みたいのにとっては便利で助かるけれど、冷静に考えるとちょっと奇妙な気もする。処方箋とお薬手帳をだして薬を受け取ると、人のよさそうな薬剤師の人に「お大事にどうぞ」と言われて、こういう時いつもいい返しが思いつかない、と、こういう時いつも思うことをまだ思った。
お大事に、と、私はあらゆる病院で何年も何年も言われ続けているけれど、お大事にと言われて自分をどうすればいいのか、いまだに具体的なところはわからない。熱があったり鬱の時は、とりあえず薬を飲んで寝ていればいい気がするけれど、嗅覚を失った今の自分をお大事にするとはどういうことだろう、なんて詮無いことを考えながら歩く。いつもの道をいつも通り歩くだけなら、今の自分に欠けたところがあるなんてまったく思えなかった。晴れた温かい日の、うららかな午後の住宅街はほぼ無味無臭だ。たまに自転車にのった高齢者や子連れの女性とすれ違うけれど、別に彼らも普段からにおったりしないので自分に嗅覚があってもなくても変わらないのだと思う。
(もしもネットに書いてあったみたいに予後が悪くて、何年も嗅覚が戻らなかったり匂いがわからなくなってしまったら)
そう考えてみたけれど、いまいちピンとこなかった。さっきも思ったがダイエットにはいいかもしれない。何を食べても味がよくわからないから、食べるのが楽しくなくなるかも。食べるのが好きじゃない自分というのは新鮮な存在な気がした。ある種の生まれ変わりというかメタモルフォーゼ、嗅覚のあった自分、という存在が小さな死をむかえたあとの、無臭の世界に生きる自分も悪くないかもしれない。匂いのない世界は、考えてみれば静かな気がした。静かで平らかで、匂いのある世界より少しだけ平和で、そこに生きれば私も平和になれる気がする。嗅覚の死は、自分を少しだけ安らかにしてくれるかもしれない、なんて考える。病院に行く前はうっすらと怖かったくせに、点鼻薬をもらえたせいか気が大きくなっているかもしれない。
いうて治るだろうと思っている。なんの根拠もないが、自分の人生にあからさまな悲劇は起きないだろうという正常性バイアス。
坂道にさしかかった時に、いつも庭を綺麗にしているお宅の、吹きこぼれるような白い花々の群生がふと目に留まった。名前を知らない細かな花と、少し暗い色のとんがった葉っぱ。
そういえば、この季節のこの家の庭にはこの花が溢れるくらいに咲くのだったと思い出す。下手に注いだビールみたいに、道に面した柵から泡のように白い花が溢れているのを見てそう思い出した。
毎年この時期、この坂道はこの花のいい香りがする。記憶のなかから、その甘くて強い香りが一瞬、鼻腔をかすめた気がした。だけどすぐにその記憶は消えて、甘い強い香りもわからなくなってしまう。この時期、数日だけの香り。記憶のなかの絵から、もともと見えていなかった部分を切り取られたような妙な座りの悪さを感じた。
喪失の感覚。
悲しい、と思った。
何か鋭いものに斬られたように、初めて自分が今失っていることへの痛みを感じた。

コーヒー好きで食道楽の自分が、そのへんの家の花の香りがわからないことで初めて真剣に自分の嗅覚を惜しんだのが、なんだかおかしかった。私は自分がそんなことを大事にしていたことを、全然知らなかった。
何年も何年も、ほぼ毎日行き来する道に面してたっている家の柵からこぼれでる、いつも春が終わるころに咲く、正確な名前も知らない白い花の群れ。
記憶の中から、甘くて強めの香りが立ちあがってくる。きかなくなった鼻の奥、頭の中の、おそらく物理では距離のはかれない深い場所から、とくになんの思い出も思い入れもない、普段はそこに咲いていることさえろくに意識しなかった花の香りが。
私が。
人生の終わりに惜しむのも、こんなことなのかもしれない、と、ふとそう思った。私が好きなもの、執着していること、快いと思っていることや情愛をもって交流している人たちではなく、路傍の、つまらない、名前すら知ろうとしなかったなにかが自分の日々ずっとあったことに気がつく。失うというのはそういうことなのかもしれない。

柵の隙間から吹きこぼれるように花を咲かせている家の前を通り過ぎ、坂をゆっくりと登りながら、もらった薬は全部ちゃんと飲もうと思う。点鼻薬の仕方も忘れないうちに試しておきたい。しばらくは10種類以上の薬を飲むことになってしまうから、嗅覚が戻るまでは節約と健康のために、毎食納豆ご飯でもいいかもしれないと、小さいことを思った。

公演案内:
nook.noo.vol1『Reading&Live』公演について


モスクワカヌの個人ユニット「noo」。
6月9日に、1日限りのReading&Live公演を行います。
再演となる短編、『幸福な、王子とツバメとその隣人』と、短編にも出演される海老原恒和さんのソロライブ。
『幸福な、王子とツバメとその隣人』は、初演時はコロナまっただなかで、上演は一回、それもお客様をいれずに配信のみだったので、今回Liveと一緒に生の舞台でお客様をむかえて上演できることを、とても嬉しく思ってます。
オスカー・ワイルド作『幸福な王子』へのオマージュともなる本作。
稽古も始まりましたが、とても素敵な物語の世界と時間を、お客様とご一緒できそうで、私もワクワクしております。
Liveも絶対楽しく聞き応えのあるLiveです。
1日限りの公演ではありますが、よろしければ是非ご来場くださいませ。

nook.noo企画vol.1

Reading&Live
『幸福な、王子とツバメとその隣人』
『海老原恒和Solo Live』


日時
2024年6月9日(日)全2回公演
▼1st ステージ
15:00開演(14:30開場) 16:30終演予定
▼2nd ステージ
18:30開演(18:00開場) 20:00終演予定

※1stステージと2ndステージは同じ内容です。
※2nd ステージにご来場のお客様は終演後21時まで、追加ドリンク1杯500円にて店内にてご歓談頂けます。

■ステージ内容
朗読劇&音楽ライブ
 (途中10分の休憩あり)

『幸福な、王子とツバメとその隣人』
原作:オスカー・ワイルド
脚本:モスクワカヌ
演出:赤澤ムック
出演:海老原恒和 モイラ

『海老原恒和Solo Live』
出演:海老原恒和(Vo)
   勝部由香(Key)

■料金
4,000円+1ドリンク500円
※各回 定員20名

■ご予約フォーム
・メールでのご予約
feat.noo.mw@gmail.com まで、ご来場される方のお名前と人数、ご来場される回をお知らせください。当日精算にてご予約を承ります。

・webからのご予約
Peatixのリンクよりご予約ください。
https://peatix.com/sales/event/3936227/tickets
※web予約にはPeatixへのログインが必要になります。

■場所
VOX - MIX BAR
東京都新宿区新宿 2-11-7 第33宮廷ビル B1F
新宿三丁目駅[C5 出口]を出て横断歩道を渡り、大阪王将のあるビル地下一階

◼️nook.noo企画とは
モスクワカヌ主宰のユニット「noo」が企画する、劇場以外の場所での公演や1人芝居、短編等の小さな演劇を上演していくことを試みるシリーズです。

■問い合わせ先
noo
mail:feat.noo.mw@gmail.com

製作:みそ飴

ごあいさつ ~おわりに~

今月号はちょっとギリギリの更新になった月刊noo。
こうして1人マガジンを続けていると、自分の日々が毎月それなりに彩り豊かに流れて行ってることが視覚的に確認できるのがいい感じです。ASD特製の1つで、見えないものを存在しないものにしてしまいがちな私は、過ぎた時間や思い出がすぐ見えにくくなってしまって、ともすると自分が積んできたものが何か見失ってしまうのですが、文字にして残す習慣を続けていると、webに残る記事としても、体に残る感覚としても、過去をとらえやすくなるみたいです。
今しばらくは、コツコツと続けていきたい所存の月刊マガジン。
今後ともよろしくお願いします。

一息しつつ




応援・サポート、いつもありがとうございます。 気持や生活、いろいろ助かります。 サポートを頂いた方宛てに、御礼に私の推し名言をメッセージ中です。 これからも応援どうぞよろしくお願いします。