「普通」に見える。
私は自閉症スペクトラム症候群であるが、「全然そんな風に見えない」とよく言われる。
確かに自分は、どちらかといえば擬態ができるほうだと思う。
それに自閉症スペクトラム障害というのは程度も現れも人によって全く異なり、さらに一人の人間のなかでも各分野ごとに発達の速度や偏り具合、リミットが違う。たとえば知的には問題ないが身体能力が著しく低く思うように体を動かせないとか、社交はできるが日常生活でのこだわりが強く支障がでるとか、文章は書けるが会話ができないとか。だから「これが自閉症スペクトラム障害の症状です!この症状がある人は自閉症スペクトラム障害です!」と言い切ることが難しい。別に自分の首から「私は自閉症スペクトラム障害者です」みたいな看板をぶらさげて生きていたいわけじゃないけれど、「全然普通じゃん」と思われることにも、それはそれで弊害がある。
一番大きな弊害は、「勝手に普通の人と同じと思われて、そう思った相手に勝手に期待外れだったと言われて敬遠される」という経過で、私はこれをやられると大変に傷つく、というか傷ついていた。
子供の頃は親によく「どうしてちゃんと生んであげたのに普通じゃないんだ」と泣かれたし、「ワカヌさん、普通にできる人だと思ったけれど期待外れだったね!」と面とむかって言われたこともあるし、だいぶ以前の職場だけれど、管理職に自分の特性のことをうちあけて相談した時もこのパターンで、「でもワカヌさん、全然普通に見えるし、普通にやれると思うし、私も頑張るから一緒にがんばろ!」みたいなノリで対応され、結果頑張れず退職することになり、最終的に「残念です」と言われて終わった。
疲れやすく、大きな声や音が苦手で、日々のルーティンに変更が多いと混乱してしまう等から、職場での朝令暮改なルール設定や、職員同士が怒鳴り合うようなやり取り、トイレの時間を社員に測られること等を改善してほしいという相談をしたのだけれど、管理職の回答は「私と一緒に頑張ろう」「ストレス解消に運動がいいよ」「ランチの時間に昼寝とかしたら?」であった。
結果、その職場で私はしょっちゅう休憩に行き、トイレに長時間こもり、仕事中に具合を悪くし、耳栓をして仕事をし、それでも受けるストレスはいかんともしがたく退職したのだが、その退職時に件の管理職は「私がこんだけ目をかけてあげたのに退職するんですかそうですか。あなたはやっぱりおかしな人だったんですね残念です」みたいな反応だった。
今思い出してもぶちこ…大変悲しい思い出であるため、退職の際にそれまで作成していた仕事の効率アップのためのデータ等を悲しみのあまり誰にも引きつかずに全削除してしまったりしたのだが、それも全て過ぎたことである。
そういう傷つき方を回避するために、最初から「私自閉症スペクトラム障害なんで!障がい者なんで!」を前面に押し出すという方法もあり、これはこれで一つの処世術だと思うのだけれど、個人的には隠してはいないけれど声高でもない、というスタンスで今のところ落ち着いている。
「ワカヌさん、全然普通に見えますね」と言われるのは別にいいのだけれど、普通に見えるから「普通にできる」「普通にいられる」ことを期待されると、とたんに困ってしまう。
たいていそういう期待をする人の言う「普通」と私はあわない。
自分はそんなに突飛な人間じゃないし、地味に堅実に毎日をおくっているのだけれど、それでも駄目らしい。多分、私が銀行とかにつとめて週5で働いて結婚していて子供が男女1人ずついてローンで家とか購入してないと駄目なのかなって思う。
勝手な期待をする人は、勝手に裏切られるし、そこで裏切ったのは私ということになっている。以前はそれを申し訳なく思っていたし、「私がおかしいからだ、ごめんなさい」的な落ち込み方をしていたけれど、今ははっきり言って迷惑としか思わない。それを迷惑だと思えるようになったのは、私を期待とか普通とかの型にはめずに付き合ってくれる人たちとの人間関係が出来たからだと思っている。今の私は、勝手な期待をする人との関係がほとんどないので、とても楽だ。
以前、所属している劇団で劇団員の台本の講評を皆でしていた時に「あなたと私は何も違わない、と言うことが暴力になることもある。だって、実際障がいのある人とない人は違うから」という意見がでた。
それを聞いて、私はずっと「あなたと私は何も違わない」と言ってくれる人の言葉に応えられない自分を責めていたけれど、あれは暴力だった、ということがスッと腑に落ちた。自分のなかで「違う」ということが差別や区別の理由になると考えていたから、「違わない」と言われると安全な気がしていたけれど、「同じ」と言われることはフェアに扱われることとイコールではなかったし、「違う」ことは差別や区別を正当化する理由じゃない。私は皆と同じ人間だけど、違う人間でもあるという矛盾は、曖昧なことが苦手な私の特性からするとストレスなのだけど、結局社会では「違う人」と扱われる方が楽な自分がいる。
ずっと皆と一緒がいいと思っていたし、今でもその思いを100%捨て切れてはいなくて、たまに辛くなる。本当は障害のあるなしに関わらず、人は一人一人皆違っていて、皆孤独で、皆同じで一緒だねなんてことがないことも頭では理解しているけれど、それでも「私は皆と一緒」という幻想のなかで生きられたらいいな、と思ってしまう。物心ついた時から自分はパズルのなかの余計なピースじゃないかという疑惑があった。一体感をもてない世界からの強烈な疎外感、集団への恨みや怒りと表裏一体の執着や渇望、自己嫌悪が拡大された形での同族嫌悪。そういうものとは無縁の人生を送ってみたかったという叶わぬ願いは、なかなか成仏しない。
ただ、それはそれとして、私は個人的に限りなく「普通」に日々を過ごしている。
気圧の変化で体調と気分が一喜一憂し、調子が悪くなると奇声をあげ、意味のない独り言をブツブツ言いながら好きな家事をし、苦手なことは後回しにし、タオルの用途の使い分けにこだわることで心の安定を得つつメンタルクリニックで薬を山ほどもらい、それを飲んだり飲まなかったりしつつ、週5が無理なので行ける頻度で仕事に行き、執筆もする。
だからやっぱり自分は自分的には普通なのではないかと思う。
ほとんど誰でも、その人なりに普通なんじゃないかと思う。
だとしたら、やっぱり私は皆と同じで、本当はずっと皆と一緒だったんじゃないかとも思うけれども、たぶんそれも私の成仏できない願望のみせる幽霊なのかもしれない。