分断を生み出した自称リベラルたちの行く末 米大統領選から考える
加藤文宏
ネトウヨ・チー牛連呼で多様性とは
リベラルとは個人の自由や多様性を尊重する、寛容な姿勢を取る立場だったはずだ。ところが東日本大震災と原発事故のあと「ベクレてる」と差別的な妄言を放った政治家山本太郎がリベラルへ位置付けられたことでわかるように、リベラルの意味があまりにも変質した。そして後に、保守主義者や極右的な言動の人々だけでなく、リベラルの意に沿わない人々がネトウヨと揶揄されるようになった。
安倍晋三氏が顔写真をドラムに貼られて叩かれたり、フェミニズム運動が女性解放と社会進出のための運動ではなく表現規制や男性蔑視、さらに男児差別に成り果てたり、性の多様性を広く認知させ権利を拡大する運動に全面的な賛意を示さないと性的マイノリティーであっても排除されたり、リベラルはキャンセルカルチャーを正当化するための看板と呼ぶほかない存在になった。
今ではネトウヨのほかチー牛なる蔑称も多様されている。いずれも相手の事情や主張や悲鳴を無視して一方的に使用されている。リベラルにあるまじき不寛容な姿勢によって、社会にさまざまな分断が生じたのは言うまでもない。
大統領選の敗者となったリベラル
日本だけでなく世界でリベラルが変質し劣化していた。その行き着くところまで行った結果が、トランプ対ハリスのアメリカ大統領選だった。この大統領選はトランプ氏または共和党が勝ったのではなく、ハリス氏または民主党が象徴するリベラルが負けたと言うべき事態だ。
日本の報道機関の中にトランプ氏は低学歴層に支持されたと伝えるものがあり、物事の道理がわからない人々によって大統領に担ぎ上げられたと言いたい様子だ。しかし実態は、リベラルが社会的弱者を選別して、排除された人々の苦境を無視した結果、ハリス氏が嫌われてトランプ氏に票が集まったのだ。
黒人への人種差別を解消するためのBLMや、レインボーフラッグを掲げたLGBTQの権利を求める運動が展開されたいっぽうで、運動と運動を展開するリベラルから無視されて割りを食う人々が多数存在した。これらの層は異議申し立ての機会がもともと少ないばかりか、質問さえ遮るノーディベートの姿勢が蔓延したので、この世に存在しないかのような扱いを受けた。あるいは、差別をする側であったり加害者層であるかのように表現された。こうして白人の弱者層などは、救済されるべき人々とされた黒人やマイノリティーたちだけでなく、運動を推進した高学歴で高収入の社会的強者であるリベラル層とも完全に切り離され、社会から排除されてしまった。
こうなったのはリベラルを標榜する人々に、白人弱者などを救う気がなかったからだ。リベラルな人々は白人の弱者らがいるのを知らなかったのではなく、これらの人々を救っても名誉欲や功名心が満たされるとは思えず、弱者の切実さを理解しようとしなかった。ハリス氏または民主党が象徴するリベラルの弊害を押し退けるには、トランプ氏に投票する以外に手がないと考える人がいて当然だろう。
では日本はどうか。
原発事故後に山本太郎を支持したのは、東京城西エリアの左翼系またはリベラル系市民だった。このエリアは男女や年齢の別を問わず高学歴の人々が多く、不動産収入で生活する人のなかには、大卒後に十分な社会経験を積まないまま地主として壮年または高齢になった人もいる。城西リベラル層はトマ・ピケティ曰くバラモン左翼層であり、古典的な言い方をすれば偽善の飾りとしてリベラル的であったり左翼的な言動をするシャンパン社会主義者たちだ。彼らは、多様かつ深刻な課題を背負わされた福島県の当事者を救済しようとはせず、反権力運動として展開された反原発運動の正義に酔ったのである。
特権的な正義を得ていると信じきっているところ、世間からの見かけや聞こえにこだわるところ、運動の威力を利用して攻撃的な行動をしたい人々を動かして得意になるところなど、リベラルを自称する人々にアメリカと日本の違いはないようだ。
見栄はりリベラルと家元政党
日本の自称リベラル層は「反権力」と書かれた字面を信奉しているだけで、権力とは、自由とは、平等とは何かを理解しているわけでも、理解するため調べたり、学んだりしているわけでもない。
暇と金を持て余す人々は、この世に自分が存在することを正当化するため、ブランドものの服や雑貨を買い揃えるように、リベラルだとされる論調を取り入れ、利用する。お金がない人は、そんなブランドものがタダで手に入るとあって、リベラルを自称する。そうすれば、ご立派な人なみに体裁が整った気がして肩身の狭さが減るだけでなく、他人を見下せると信じている。両者にとってリベラルとは見栄えがするファッションに過ぎないのだ。
バラモン左翼としてのリベラル層は、反権力を唱えるために使える弱者を利用するだけで、他の弱者には興味がなく嫌悪すらしている。体裁を整えるためリベラルを自称する弱者は、反権力を唱え虚空に拳を突き上げて一時の満足を得たり、賛同しない人々を攻撃して虚しさを忘れようとする。ネトウヨ、あべしね、チー牛、ズブズブ、壺、裏金などの連呼で、両者は自分たちの見栄えがよくなると信じているのだ。ファッションとしてのリベラルに問題解決能力はなく、むしろ分断を生み出す最前線になっている。
ではリベラル政党なるものはどうか。
リベラル政党と政治家にとって、自称リベラル層は生簀の中の魚であり、票田に過ぎない。反権力リベラル派の家元であったりフランチャイズ本部とも言える。10月の衆院選で野党の多くが、いま苦しんでいる弱者を救済する政策を唱えず「裏金」と連呼するばかりだったのは象徴的だ。振り返れば、民主党政権の事業仕分けは権力や権威といったものを吊し上げるショーで、同党には建設的な提案がまるでなかった。モリカケ桜騒動は、何が、どのように悪く、それでどうなったか曖昧な政権批判の連続だった。だが、こうした燃料が「反権力」の看板を掲げたいだけの自称リベラル層には必要だった。
社会の対立や利害を調整して社会全体を統合する政治本来の目的を忘れているどころか、こうした政治的な取り組みまで権力批判を名目にして潰そうとするのだから、弊害ばかりが山積みになり矛盾によって社会に歪みが生じるのは当然だ。
アメリカ大統領選の影響は、やがて日本に押し寄せてくる。東京城西エリアに限らずバラモン的な本邦の自称リベラルたち、ご立派な人なみに体裁を整えたい人たち、彼らの虚栄心を刺激する活動家、家元かつフランチャイズ本部の政党といったものが、このままであるはずがない。
社会を分断することで自らの首を締めていた彼らは、いずれ窒息する。彼らだけが倒れても社会のお荷物になり、他の人々が彼らの道連れにされるならたまったものではない。