フクシマ型PTSD命名の悪質性を問う ──辻内琢也・鴨下全生・早稲田大学・カトリック・三和書籍
加藤文宏
スティグマ化を狙った命名
早稲田大学人間科学部教授の辻内琢也氏が、「日本で起きている原発事故の問題が、決して福島県に留まった問題ではなく、日本全体の問題であり、さらには国際社会の問題」であるとして、ある種の精神的苦痛に『フクシマ型PTSD』なる命名をした。
さらに『[意見書]フクシマ型PTSD “今やらねばならぬこと”』と題した書籍を2024年8月16日に三和書籍から刊行している。
フクシマ型という命名がスティグマ(「差別」や「偏見」など否定的な意味合い)を固定する、または福島県在住者として苦痛を感じるとする批判があるにもかかわらず、「ヒロシマやナガサキの原爆がカタカナで記載されてきた歴史的経緯に倣ったものです。」と正当化し、撤回の意思がない旨を自身が運営するゼミのブログで表明した。
辻内琢也氏は医学博士であり、日本トラウマティック・ストレス学会、日本質的心理学会、日本東洋医学会、日本自殺予防学会、日本公衆衛生学会に所属している。このような立場の人物であるのに、WHOが2015年に新興感染症を名付ける上での”best practice”として勧告した指針を知らないはずがない。
WHOは地域名、特定の動物名を冠した命名は、特定地域のイメージダウンや往来や交易の阻害、ひいては特定の動物の虐殺に繋がり、地域の生命や生活に深刻な結果をもたらすとしている。フクシマ型PTSDは感染症ではないものの、地名と神経症性障害を結合した造語であり、WHOの勧告同様の問題が懸念され、さらに福島県をフクシマとカタカナ書きする行為は当事者から何度もやめるよう抗議され続けてきた経緯がある。
だが辻内琢也氏は「問題を国際的にするため」つまりスティグマを国際的なものとして固定し記憶させるためフクシマ型PTSDと命名し、これを書名に冠した書籍を三和書籍が出版した。
なぜ『フクシマ型PTSD』という命名が不適切か、これで説明は十分だろう。
新型コロナ肺炎は一時期「武漢肺炎」と呼ばれたが、WHOの勧告通り病名はCOVID-19、ウイルス名はSARS-CoV-2と呼称され、俗称としても武漢は使用されなくなった。辻内氏がフクシマ型PTSDを使用し続けるのは、COVID-19を相変わらず武漢肺炎と呼び続けるのに等しい。そして、こうした差別的な姿勢で福島県と県民に臨むのが辻内琢也氏の基本姿勢と言ってよいだろう。さらに三和書籍は、COVID-19関連の書籍に武漢肺炎とタイトル付けするような真似を、福島県に対して行ったのだ。
早稲田大学の倫理観
研究者には学問の自由があり、言論の自由が保証されているが、無条件であるわけではなく公共の福祉に反するものは規制される。公共の福祉とは、たとえば侮辱、名誉毀損、非人道的行為など他の人の人権にまつわる事柄だ。
これらを鑑みたとき、辻内琢也氏によるフクシマ型PTSDという命名は倫理的に問題を抱え、学問の自由や言論の自由があるからといって野放図に使用されてよいものではない。むしろ、撤回されるべき名称である。
では、コンプライアンスから逸脱した辻内琢也氏の研究で人権を傷つけられた人々が、人権を回復させるにはどうすればよいのか。
辻内琢也氏はフクシマ型PTSDの正当性を主張しているうえに命名の当事者なので、第三者的な立場から「フクシマ型PTSD」について法令や倫理や公序良俗の観点から妥当かを問わなければならない。この事案では、早稲田大学における辻内琢也氏の研究の成果としてフクシマ型PTSDの概念が登場したのだから、同大学の規則、倫理観、公序良俗観が使用者責任として問われることになる。
なお大学とは研究者に研究室を提供する箱貸し業ではない。教職員が業務遂行上の過失で他者に損害を与えた場合、大学は使用者責任のもと賠償責任を負う。そして、辻内琢也氏の研究は早稲田大学の倫理委員会が承認しているから継続されているので、早稲田大学のコンプライアンスが問われて当然だろう。
辻内琢也・早稲田大学・三和書籍への対応
辻内琢也氏の研究は、フクシマ型PTSDの命名に留まらず、放射線の影響を日本のみならず国際的な基準をはるかに超えた過大なものとしたり、量の概念を失した珍妙な解釈が行われるなど、恣意的に福島第一原子力発電所事故の被災地を汚染が甚だしい場所とするものだ。
本来、アカデミアの中で内容が精査され、問題箇所が是正され、主張が撤回されてしかるべきもののはずだが、これらがまったく機能していない。このためWHOの勧告からもはずれる、非人道的な造語「フクシマ型PTSD」で当事者らを苦しめている。しかも辻内琢也氏の主張が三和書籍によって刊行されるに至ったほか、早稲田大学のコンプライアンスが問われることになった。
辻内琢也氏は職を追われる必要はないが、フクシマ型PTSDという名称は撤回され、三和書籍から刊行された『[意見書]フクシマ型PTSD “今やらねばならぬこと”』は回収されなければならない。また、辻内琢也氏、早稲田大学、三和書籍は公式に対処および謝罪を公開すべきだ。
スティグマ生成と利用の構造
1 不確かな証言
フクシマ型PTSDに関する問題が広く知られるようになったのは、辻内ゼミに属する学生鴨下全生氏のX/Twitterでの投稿だった。鴨下氏は2011年3月12日に両親とともにいわき市から関東へ移動した自主避難者で、レジ袋や洗面器に鼻血を受けて歩く子供を避難所で見た(本人も同様の鼻血を流した)と主張している。いつ、どこで経験したことか説明を拒んできた同氏は、最近になって旧赤坂プリンスホテルに開設された避難所での出来事であると言い出した。
しかし千代田区、日本赤十字社、ボランティア、同避難所を取材した報道機関から大量の鼻血を流す人の報告はあがっていない。つまり目撃されていないだけでなく、避難所に設置された相談所に甚大な健康被害が報告されていないことになる。なお、鴨下全生氏の母親である美和氏も赤プリ避難所で報道機関から取材されたものの、健康被害について証言しなかったらしく記事にも鼻血の逸話は語られていない。
また旧赤プリでは世帯ごと個室(客室)が与えられていたため、むしろ孤独だったと語る人がいるほどなのに、鴨下氏曰く「1割」くらいの人が鼻血を流したとどうして言えるのか説明がない。
このほか鴨下全生氏の原発事故被害と被曝についての証言は、エビデンスに欠けるだけでなく、意図的に背景情報を秘匿したものが多いにもかかわらず、レジ袋と鼻血の逸話は辻内ゼミのブログにも掲載されている。これは辻内ゼミ公認の証言とされたのを意味する。辻内ゼミと早稲田大学の関係は前述した通りであり、責任の所在もまた明らかだ。
美和氏も各所でレジ袋と鼻血の逸話を語ったほか、伊方原発運転差止等請求裁判に向けて陳述書を書き、「避難所や避難住宅では、うちの子に限らず、鼻血を出す子が多くいました。 それも、見たことのない程、酷い鼻血です。吹くような、吐くような勢いで、 鼻血が両鼻から出たり、それが喉をまわって口からも出る。綿やティッシュ では追い付かず、洗面器やレジ袋で、流れ出る血を受ける子どもたち。それが30分経っても治まらない。」とした。
こうした原発事故の影響を語る母親譲りの逸話と、鴨下全生氏が転校先の小学校で避難者としていじめられたとする逸話が、同氏の主張の根幹にある。これらのほとんどが、被害当事者が語るのだから真実であるとし、未検証なまま原発事故由来の被害とされ、フクシマ型PTSDという概念へも結びついていくことになった。
2 選別と利用
鴨下全生氏が、カトリック中央協議会内の「カトリック正義と平和協議会」の働きかけで、教皇へ謁見した際に被災者代表として「死にたいくらいつらかった」と語った訴えの基調も前述のものと同様だった。
謁見時の様子と鴨下全生氏が発したメッセージの概要はカトリック中央協議会のWEBページに掲載され、同氏はX/Twitterのアカウント・ヘッダー画像に謁見時の写真やイラストを掲示している。
カトリック中央協議会が自主避難者の中から鴨下全生氏または鴨下家を選別したことになるが、これは福島県の人々の中から彼と一家が選別されたのも意味する。カトリック中央協議会が鴨下全生氏と一家を選別したことによって、彼らは特権的な語り手となり、他の人々の発言を排除したのは彼のX/Twitterでの振る舞いや、美和氏の講演などからも明らかだ。またカトリック中央協議会は特権的な語り手を抱え込むことになった。こうして福島県で暮らす人々との間に分断が生み出された。
辻内琢也氏は自身の論文や発言で、自主避難者を特権的な位置付けにし、自主避難者が批判されているとして、自主避難者と自主避難者以外を分断した。当然のように同氏のゼミ生である鴨下全生氏の証言を取り上げているあたりは、彼とカトリック中央協議会の関係と同類であろう。
3 密室での操作から分断とスティグマ化へ
鴨下家は報道、活動家メディア、デモ等の現場、講演会、SNS、裁判の陳述書で特権的な語り手として自身のナラティブを語った。
カトリック中央協議会は自身のメディアだけでなく教皇と教皇を取り扱ったマスメディアの報道で、鴨下家のナラティブに自らの政治的主張を混ぜ合わせて拡散させた。
辻内琢也氏は研究成果として、鴨下家に限らぬ選別された特権的な語り手のナラティブを論文および出版物として拡散させた。
鴨下家が自主避難者の典型または代表として選抜されたのは、客観的な査定の結果でも、幅広く社会の合意が得られたうえでのことでもない。鴨下家が自ら名乗りをあげ、カトリック正義と平和協議会が選び出し、辻内ゼミでそのように扱われているだけだ。密室で決定され、ナラティブが採用されたとも言える。
そもそも鴨下家は福島第一原発で水素爆発が発生する前に関東へ出立し、小金井市には広大な実家の土地と家屋、このほかマンションも所有していた、自主避難者の典型や代表とは言い難い人々だ。また原発事故後の福島県と福島の生活を語れる当事者かといえば、10余年にわたりいわき市を離れているのだから当事者を名乗る資格はない。
だがさまざまな機会に、鴨下家の「自主避難者」としてのナラティブが利用されたのは前述の通りだ。そして、ここから汚染されたままの土地、人が暮らすのに適さない土地、農業や酪農や漁業から得られる産物は忌避すべきであるかのような、福島県蔑視のスティグマが生成され、念押しされ、固定されようとしている。
聖域の主として君臨させてはならない
震災と原発事故の対応に追われた日々は、これらが未曾有のできごとだった故に、当事者はスティグマの押し付けやさまざまな風評加害行為があっても異議申し立てができなかった。だが、今は違う。
学問の自由、言論の自由、出版の自由、信教の自由は最大限尊重されなければならないが、これらは公共の福祉に反するものまで守られる聖域ではない。辻内琢也氏、鴨下全生氏、早稲田大学、カトリック、三和書籍は、それぞれの自由によって成した言動や、言動を生む環境を提供した責任を負わなくてはならない。
原発事故後に双葉郡からいわき市へ移住した40代の男性は、昨今話題になっている鴨下全生氏と辻内琢也氏が持ち出すナラティブとスティグマに「とても嫌な気持ちで、精神がもたない。つらいです」と語った。
さらに彼は、「どこに文句を言ったらよいのですか。学会ですか、(カトリックの)教会ですか。私が何か言っても、相手にされないじゃないですか。あの人たちは、いつも言いっぱなしです。謝罪はとうぜんですが、償ってくれなかったら、私たちはやられっぱなしです」と嘆いた。
この一言に筆者は背中を押され、当記事を書くに至った。
鴨下氏は自らの発言で生じた影響を償う気がまったくないようだが、辻内琢也氏、早稲田大学、カトリック、三和書籍は何一つ償いもせず当事者の声を黙殺するのだろうか。
謝って済む状態ではないのだ。