土石流災害とノイジーマイノリティーが可視化させたもの
──反原発、再エネ賛美、フェミニズム、五輪。議論なんてなかった。
著者:ケイヒロ、ハラオカヒサ
この国は議論が死に絶えたかに見える
相手を言い負かすためではない、よりよい着地点を目指すための議論が圧倒的に足りない。
たとえばオリンピック開催の是非が問われるなか、是と非それぞれの多様な意見が冷静に吟味されただろうか。
誘致、決定、その他国立競技場ザハ案の紆余曲折などさまざまなできごとがあるたび人々の関心の高まるのは当然だった。こうしたなか森元首相発言から生じた「わきまえない女たち運動」もあった。
「わきまえない女たち運動」のすべてが無意味だったとは言わないが、報道も世論も騒動として消費された感がある。当事者たちと第三者が大きな声で応酬しあうだけで議論を深めるには至らなかった。これがコロナ禍は2年目、開催まで半年のできごとだった。
それ以前、それ以後どうだったのか。新型コロナ肺炎の国内での流行がはじまった2020年1月からこのかた開催か中止かいずれか一色に染まった声が勢力を競い合うだけで、互いの主張の細部を検討しあう議論は皆無だった。断片が断片のまま放置されたまま、いまだ声の大きさを競っている。
これはオリンピックに限った話ではないし、今にはじまったのでもない。反原発運動は少しでも異なる意見を叩き潰すもので議論なんて成立のしようがなく、往時の騒がしさといったら「わきまえない女たち運動」どころではなかった。
被災地と被災者の実態はどうなっているか、これからのエネルギー政策はどうあるべきかなどといった事柄を冷静に問いかけようとする人がいれば、反原発運動は専門家を吊し上げるなど言論を圧殺した。棺を運ぶ悪夢のようなデモがあり、防護服にガスマスクをつけ太鼓を叩くデモもあり、脅迫や熱狂のうちにかき消された声があった。こうして原子力発電の活用を言い出せない空気が政治家や官僚にまで及んだ。
2021年7月、経済産業省の審議会で大詰めの検討が進んでいる第六次エネルギー基本計画原案で原子力政策は「推進」から大きく後退した。直前まで脱炭素化、電力事情の逼迫等要因によって「原子力の最大限の活用」「新増設・リプレースの推進」が盛り込まれる動きだったが、関係者によれば世論に配慮した結果だ。
声の大きさで相手を圧倒したら、何ひとつ解決されなくても勝ち。こんな幼稚で暴力的なことがまかり通っている。そして反原発運動から生じたノイジー・マイノリティー(過激な姿勢を取って発言し声の大きさゆえに目立つ少数者。大衆の総意のように思われる傾向が強い)がもたらす悪影響ははかり知れないものがある。
以前からそうだったのかもしれない。ほかの要因もあるだろう。しかし反原発運動の指導層にとっても、彼らが生み出したノイジー・マイノリティーにとっても相手を言い負かして思い通りにことを運ぶ成功体験が残した禍根はあまりに大きいと言わざるを得ない。そう考えざるを得なかったのが伊豆山の土石流災害だった。
土砂災害が露わにしたもの
7月2日から梅雨末期の大雨が降り、静岡県熱海市伊豆山の山林で7月3日午前10時30分頃土石流が発生して人命と多くの人の生活が奪われた。単なる自然災害ではなく不法投棄による盛り土が原因ではないかと取り沙汰され、埋め立てられた谷のそばにある太陽光発電所との関係が政治的にも過去の経緯ふくめ注目されている。
原子力発電所に対してはわずかな懸念にさえ実力行使含む運動を展開する活動家が、今回はやけに静かだ。熱海市伊豆山の太陽光発電所は土砂流出防備保安林を伐採し整地してつくられたのではないかとも言われているが、反原発派にいた環境活動家もとくに反応していない。
原発事故が原因の被爆で鼻血など流す人はいなかったし、奇形も癌も多発していなかった。首都も壊滅しなかった。このようなデマにすぎない話題を取り上げ何年間も大騒ぎを続けた人たちが、目にあまる乱開発と人災といってよさそうな災害に沈黙を守っているのだ。
今回の土石流と切り離して考えてみる。
太陽光発電は効率が悪いだけでなく、環境を破壊し災害を誘発するのではないかという懸念は10年前からあった。原子力発電所一箇所ぶんの発電をするのに山手線円周内に相当する太陽光発電所が必要で、火力発電所は二酸化炭素を排出するから全廃と言うなら、樹木を伐採し土地を切り削りしながら大面積を確保しなければならないのは自明の理だ。
だが「原発と原発事故で自然が傷つけられ、人の命が脅かされている」と声をあげた人々が、無視を決め込むか批判者を罵るかのいずれかだった。千葉県で太陽光発電所の乱開発に反対している住民は「バブルの時代に東京でやられたやくざの地上げと同じだ」と言っている。しかし「たかが電気」と叫んでいた文化人もまた反原発運動のように集結しなかった。
それはそうだろう。
活動家や彼らの背後には再エネ関連の人脈が連なり、こうした連中にとっては業界に有利な筋書くための反原発運動であり、現在はデモの太鼓をSDGsバッジに変えてビジネスと演説に忙しい人々が実に多い。さらに言えば彼らは上澄みであり、反社会的勢力や闇深い人々との関わりを抜きに反原発から再エネへの流れを語ることは不可能と思えるくらいだ。
いっぽう末端の活動家や、活動家に扇動され騒いでいた人々は、上からの指示がなければ動けないだけでなく考えることもできない人々ばかりで、また自ら学ぶこともなかった。これらの人々は前述した再エネの効率の悪さと環境破壊の懸念だけでなく、国内のみならず先進国と途上国の間に生じる再エネ格差問題を未だに理解していない。気候変動問題で反原発、脱炭素を訴える学生たちですらわかっていない。
こうした指示待ちの末端活動家たちは、海外で進行している再エネ見直し、再構築の潮流や環境活動家の動向さえ知らないありさまだ。上掲の学生たちの不勉強を指摘した際の反論は「グレタさんたちの活動を知らないのか」だったが、そんなものはとうの昔に終わった話であり、U2のThe Edgeが再エネについて態度を翻していることさえ知らなかった。
再エネ派のやりたい放題に意見をすれば「汚い大人」「原発推進派」「資本主義の豚」と声を荒げる連中が登場するのだから議論どころか会話が成立しない。筆者たちが以下のような内容に具体的な乱開発の事例を挙げたとき、ハラオカヒサのDMめがけ殺到したチンピラたちは自ら再エネ関連企業の社員であるとか再エネ活動家を名乗っていたが、これなど業界の腐敗しきった様子を端的に表していると言えるだろう。
反原発運動では議論より大声で圧倒すれば簡単に片がつくという態度だった。再エネについても同様で批判には恫喝で対応することが常態化していた。ここには活動家や資本家に扇動された兵隊たちが関わっていた。そうした事情が土石流災害によって可視化されたのである。
なお筆者は反原発運動や運動に積極的だった左派すべてを批判しているのではない。再エネ資本に丸め込まれ見て見ぬふりを続けている者どもは多いが、太陽光発電乱開発の問題に取り組み反対運動を行なっている人々もいるのだ。
反原発運動が生んだノイジー・マイノリティー
よりよい着地点を目指すための議論が圧倒的に足りない。この問題はノイジー・マイノリティーの存在抜きにして考えることはできない。
反原発運動以来のノイジー・マイノリティーがいなければ熱海市伊豆山の災害は発生していなかったのか、発生していてもまったく別物だったのか、現段階ではなんとも言えない。この土石流災害には地方の山林をめぐる土地取引や、その他一筋縄ではいかない複雑な問題がからみあっている。だが活動家や資本家に扇動されたノイジー・マイノリティーがつくる喧騒がなければ日本の再エネ事情はまったく異なっていただろう。
まずノイジー・マイノリティーを語る前に確認しておくが、さまざまな調査で「原子力発電を徐々に廃止すべき」とする意見は45%程度を占めている。いっぽうSNSで反原発を標榜し発言する人は、SNSごと違いはあるものの多数派と言い難いものがある。これは調査で15%(近年10%)程度の割合の「即時廃止」を主張する人々のうち先鋭化した者が、SNSで反原発を標榜する人々と重なるためだ。
こうした反原発を標榜するツイッターアカウントを2017年段階でおよそ1000件抽出し発言の推移を観察したが諸事情により2018年に中断した。2020年10月に抽出済み1000件を確認すると消滅したり凍結されたアカウントを除くと872件になり3ヶ月以上新規ツイートがないものを除くと805件だった。これらを観察し続けた。
805件には名が知れた反原発アカウントも含まれるが、プロフィールに反原発を掲げたり、2017年までに連続して反原発運動関連のツイートをRTしている平凡なアカウントがほとんどを占めている。
これらアカウントは反原発の主張をするだけでなく被曝デマを流していた。デマとは「鼻血」「癌」「奇形」「関東から避難しなければならない」などで、これらを否定する人々へは攻撃的な言葉を投げかけていた。生産者へ「人殺し」などと躊躇いもなく言う人が珍しくなかった。
2014年、漫画『美味しんぼ』の作中で福島を訪れた主人公が鼻血を流したのは被曝したせいだと描写したが、多数の批判が寄せられ同作は事実上の終了となった。この時期は反原発運動にとっても分水嶺で、朝日新聞の吉田調書捏造報道のほか風評被害の固定化への反感が高まったこともあって以後、運動は停滞していく。
2015年5月、「自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs)」が結成され2016年8月解散した。反原発運動の“潮流”はSEALDsなど政治運動へ吸収される。ただしSEALDsイコール反原発または反原発指導者側ではなく、むしろ敵視する勢力も多かったが、ノイジー・マイノリティーとして育成された層は“潮流”に乗った。以前からあったリベラル意識が、反原発以外の分野へ拡張されるきっかけだった。
805アカウントの言動を追うと反原発運動と被曝デマが勢いを失われたこの時期はSEALDs支持、2017年森友学園問題、2019年桜を見る会問題を追及する立場へほぼ漏れなく移行している。当時の世相と風潮を考えればこれらの立場に取ることそのものは特に不自然ではないだろうが、強烈な「反安倍」発言が頻出している。政治家から芸能人までが種苗法改正反対運動をSNSを通じて行ったときも、やはり同調している。
コロナ禍に突入すると政権批判の延長線上にある感染症対策批判を行い、あるいは新型コロナ肺炎ウイルスやワクチンについてデマの送受信器と化すケースが目立つようになる。
事実かどうか怪しいアベノマスクカビ騒動にはじまり全国民にPCR検査を行えば蔓延を抑え込めるといった主張、ワクチン調達問題から接種会場批判、ワクチン有害説などだ。政策批判については出自から当然だろうし、後者について被曝デマを信じて拡散していた人々ということで説明がつく。既に気づいていた人も多いだろうが「むかし反原発、いまPCR検査過信」「むかし反原発、いま反ワクチン」というパターンだ。
ノイジー・マイノリティーがもたらす議論なき世論
批判が悪いのではなく、議論を封じる批判のための批判や運動に扇動にされた人の資質に欠陥がある。事実に基づかない主張、威嚇、脅迫さえ行い、まったく反省しない。責任を取るつもりもない。こうした人々が多様した批判(誤謬の議論)の例を挙げれば問題の本質がわかるだろう。
原発事故後の対策やエネルギーについての、議論と言えない言葉の応酬のなかで、以下の誤りが多用されたのを憶えているはずだ。
誤った二分法/白黒思考。あまりに単純化した二者択一。
全称の誤用/例外を無視。主語を大きく取り「誰も支持していない」などと言う。
合成の誤謬/「なになに(部分)が正解だから、全体も正解」
分割の誤謬/「全体が正解だから、なになに(部分)も正解」
背景には、
権威に訴える論証/あの人が言っているから正しい。
多数派論証/多くの人がなになにと言っている。だから、この主張は正しい。
人格攻撃論法/あいつが言うことは間違っている。
お前だって論法/おまえは自分の主張にふさわしい態度をとっていない。だからおまえの主張は間違っている。
多重質問の誤謬/質問の答えが「はい」でも「いいえ」でも不都合な結果に導かれる質問。
わら人形論法/意見の一部をわざと誤解したり、不正確または捏造して引用したり、一部文を拡大解釈して第三者に反論は妥当と思わせる。
これらのいくつか、またはすべてをつかった演劇的な批判があった。
「背景にあった演劇的な批判」は、衆人環視のSNSの言葉の応酬だけでなく報道までもが論点のすり替えを行いつつ事故報道や責任追及を行ない、多くの共感者を生じさせた手法だ。
たとえばこの戯れ歌だが、福島県大熊町に原子力発電所がつくられた経緯をまったく無視し、ここに雇用が生まれた意味もまた曲解している。しかも福島第一原発は東京電力の発電所であり、つくられた電力は首都圏に送電され消費されていた。ランキン・タクシーや彼のパフォーマンスに拍手喝采した首都圏の人々の生活を支えた電力だったことをなかったことにしている。
反原発派の我田引水な「断定」や「勝利宣言」は、不安や不満だけでなく不幸までもひっくるめて肯定してくれるものだったので、ある種の人々が集まり、こうした集団が反原発運動だけでなく質の悪いリベラル層を形成した。これはリベラルの不幸であるだけでなく、この国の不幸と言えるだろう。
コロナ禍で繰り返された的外れの批判や、デマや陰謀論に傾倒した言葉の応酬を思い出してもらいたい。誤った二分法……。権威に訴える論証……。これらが原発事故後に反原発運動に参加した少なからぬ人々によって繰り返されている。
言論だけではない。
当時もっとも苦しみ、最大の弱者だった人々を卑劣な戯れ歌で辱めたのは、安全な場所にいて豊かな生活をしていたランキン・タクシー含む人々だった。反原発とリベラル層は弱者を救う気などさらさらなく、むしろ馬鹿にして足蹴にしたのだ。
こうした運動を経験した人々が、社会運動とリベラルをどのように理解したか想像するのはそれほど困難でない。
真似っこ活動家きどりや真似っこリベラルには、弱者救済ではなく仮想敵への攻撃や吊し上げ、相手を言い負かすための言いがかりといった悪しき様式だけが残った。自らもまた弱者であることを忘れているのか、強者に転じるためなのか、いずれにしても見るにたえない態度だ。ノイジー・マイノリティどころかラウド・マイノリティーかもしれない。ここにニューカマーが更に加わり、先輩たちの仕草をコピーするのだった。
反原発から生じたノイジー・マイノリティーと必ずしも重複しないが、説明や議論を選ばず相手を言い負かすことに専念しているフェミニズム活動家と兵隊たちを思い出してみよう。
誰も責任を取らず後片付けもしない
熱海市の土石流災害は時が経つとともに人災の疑いが濃厚になっているが、被災者救助と後片付けをしているのは太陽光発電所オーナーである現地主でも、盛り土をしたかつての地主でもない。そしていくら片付けをしても失われた人命と住民たちの人生は戻ってこない。
反原発活動家が扇動して動員した人々が帰る場所を失い、まさに土石流のように氾濫、堆積しているが、しかるべき方向へ誘導すらされず放置されている。誰も責任を取らず後片付けもしない。
社会運動は否定しないが、社会運動とはこのようなもので、指導層はかき集められた兵隊たちの行く末まで面倒を見てくれるわけではないという事実はもっと知られてよいだろう。兵隊が社会のお荷物になって、片付けるのが不可能だったしても反省しないのが社会運動の指導層であるのが昨今の事情からわかるだろう。
では、どうすべきなのか。
相手を言い負かすためでなく、よりよい着地点を目指すための議論を多くの人が求めるようになるほかない。重要と思うテーマについて意見を述べるなら議論について最低限のルールは守らなければならない。ほかに何ができるか、正直なところお手上げである。
私たちは既に設置済みの乱開発太陽光発電とこれからも付き合い続けなくてはならないし、原発が満足に使えない状況のなか再エネでどうにかなるわけでもないエネルギーの時代を過ごさなくてはならない。これらは是正されなくてはならないし、いずれ是正されるだろが、いますぐ変えられるはずがない。ここに反原発運動の置き土産であるデマや陰謀論さえ捲し立てるノイジー・マイノリティまで社会が抱えなくてはならないのだ。ここに最年少部隊として環境ストライキ学生という人種も加わり、この若さで最新の情報を学ぼうとせずきれいごとだけ並べているのだから頭が痛い。
これらに対応するのは社会コストというものなのか。金銭の負担のみならず、停滞や誤った道へ誘導させられるのがつらい。熱海市の土砂災害が人災で確定なら、このやるせなさをどうしたらよいのだろう。