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九龍城砦考〜私を魅了するものたち〜

※これは私の個人的な意見なので異論は認めます。


 私が好きなものの一つに九龍城砦がある。初めて九龍城砦の存在を知ったのは、水曜日のカンパネラの『一休さん』という楽曲のMVだった。
 チャイナ服を着たコムアイさんが、九龍城を模した今はなきウェアハウス川崎内で歌って踊る映像である。当時高校三年生だった私は「なんだこの場所は!」と一目惚れしてしまったのだった。

 それから時は流れ、大学生になっても私の九龍城砦への熱は冷めやらなかった。もうこの世には存在しない九龍城の面影を探して、香港へ、九龍城砦跡へ、重慶大厦へ、ウェアハウス川崎へ、幾度となく足を運んだ。写真集も幾度となく眺め、幾度となく模写をした。

 だが、なぜここまで九龍城砦に惹かれるのか私は考えたことがなかった。今回はなぜ私がこんなにも狂ったように九龍城砦に惹かれるのか、自分なりに考察をしてみた、というnoteである。

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 私は九龍城砦を「人が人たれる最後の場所」と捉えている。
 その理由を述べる前に九龍城の歴史について触れておきたい。

 1841年、アヘン戦争に買ったイギリスは、上海、寧波、厦門、福州、広州の5港の開港と香港島割譲を清国政府に要求した。さらにアロー戦争後、北京条約により九龍市街の界限街以南の九龍半島が割譲された。この時点では九龍城はギリギリ含まれていなかったため、イギリス領とはならなかった。そして1898年、イギリスは深圳以南の香港全域を99年の期限付きで租借することになる。もちろん九龍城も範囲内には入っていたのだが、清とイギリスの交渉によって九龍城は飛び地として扱われることが決まり、清の役人が治めることになったのだった。だが、清の役人が爆竹を打ったことが原因でイギリスは清の役人を九龍城から追い出してしまう。とは言え、イギリスは先に締結した租借条約のために九龍城を統治することができなかった。こうして九龍城は「統治者のいない無法地帯」となってしまったのである。
 それから時は流れ、国共内戦や中華人民共和国の樹立、文革など、様々な動乱が起こるたびに難民が香港へ流れ込み、九龍城に住み着いた。次第に九龍城はパンク状態になり違法増築が始まる。無法がゆえに売春、クスリ、賭博に黒社会なども蔓延した。1993年に取り壊しが始まるまで、このように九龍城は行き場のない人々を受容する無法建築として存在したのである。

 九龍城に住んでいた人たちの多くは、中国本土から命からがら逃げてきた人だった。ここで私は思うのだ。「なぜこの人たちは死ぬ選択をせず、逃げて九龍城で生きる選択をしたのか?」と。

 「命のために逃げる人」は「自分として・人として生きることを諦めなかった人」である。つまり九龍城とは、そんな人たちを包み込む「自分/人間を貫いて生きられる最後の居場所」なのではないだろうか。例え弾圧される側だとしても、人から後ろ指を指される売春や黒社会に片足を入れてても、「自分であること」「人間であること」の尊厳だけは失わずに生きるため、人々はそこで生きた。誰にも統制されない無法の中でしか貫けない「自分」や「人間」を大事に守れる場所、それが(私が考える)九龍城なのだ。

 だからこそ、私には九龍城が魅力的に映る。金や名誉でガチガチに塗り固められた人からは、人間の核心は見えてこない。毎日気だるそうに.何かに身を任せて生きる人からも核心は見えてこない。全てを失った人が何を選択し、何を守るのかが明らかになった時、人間の核心が見えてくると思うのだ。人とは何なのか。生きるとはどういうことなのか。普遍としての人間が見えること、それが私の興味であり、私を魅了するものだ。 

 もう一つ、九龍城を魅力的にしている私の美意識がある。それは「全てを失っても自分の尊厳を貫く人々は美しい」という価値観だ。自分を押し殺して楽に生きる人が多い世の中で、自分を貫いて生き抜く人々の何と強く美しいことか。自分たちの手ではどうしようもない力の下でも自分として生きることを選択し、内なる情熱を守ることができること、それが私は人間だと考えている。「身を落とす」という言葉があるが、本当に身を落とした人々は「落ちた」人々なのだろうか。それらに手を出しても、いや、むしろ手を出すことによって、自分の中の人間を守ろうとしているように私には見える。彼らは一番「人間」で、美しい。

 私は九龍城に行ったことがない。生まれた時にはもうこの世には存在しない場所だった。だから、本当に九龍城が私の思うような場所なのかは分からない。
 だが、私の目に映る九龍城は「人が人たれる最後の場所」として私を魅了し続けている。


 

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