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第1夜 分数の計算ができない定時制高校2年生がMARCH理系に合格した話 |都内某所

 大学3年生になった私は、近頃就活で忙しい。

 インターンにせよ本選考にせよ、ほぼ必ずと言っていいほどエントリーシートや面接で問われることは「学生時代に力を入れたこと」、いわゆるガクチカだ。ぼーっと大学生活を過ごしてきたものだから、急にそんなことを聞かれてもすぐには答えられないのである。「さて、どうしたものか」と日々寝て過ごしていた時、「そんな君は自己分析を進めて就活に備えよう!」というアドバイスが巷から聞こえてきたので、私もまた平凡な一大学生として自己分析に取り掛かることにした。

 さて、今回の話は自己分析の最中に思い出した、私の塾講師時代のお話である。ここに登場する人物は実在する人物だが、残念ながら連絡がつかない人もいるため、プライバシー保護の観点から基本的に具体名(本名、地名、大学名等)は明かさないこととする。


出会う

 大学1年生の夏。

 大学にも慣れ、自由な一人暮らしを謳歌していた私は、当時都内某所の個別指導塾で塾講師のアルバイトをしていた。この塾は正式な生徒担当制をとっておらず、講師や生徒の都合に合わせて授業が組まれるため、出勤しないとその日はどの生徒のどの科目を教えるのかが分からなかった。

 出勤してシフト表を確認すると、「高校生 数学」と書かれている。「今日はどんな生徒が来るんだろう」と思いながら、指定されたブースで担当生徒がやってくるのを待った。授業開始時間を少しすぎた頃、背後から低い声で「すんません」と言うのが聞こえた。声の主は、私がその日担当する生徒だった。

 彼の名前は青山くん(仮名)。彼こそがこの話の主人公である。


触れる

 青山くんは、私が教えてきた生徒の誰よりも無口だった。

 「今日は何やる?」
 「…」
 「学校の宿題する?」
 「…」
 「…じゃあ、今日はどこの単元が宿題に出てるか教えてくれる?」
 「…………図形と方程式っす」

 終始こんな感じである。あとで知ったことだが、他の大学生アルバイト講師も青山くんの指導には苦労していたようだ。表情も固く、あまり自分の考えを言わないタイプの生徒だった。

 どちらかというとお喋りな講師として有名(?)だった私は「はて、喋らない生徒とどうコミュニケーションを取るかの〜」と思っていたのだが、宿題を解いている青山くんの手が全く動いていないことに気がついた。 

 「大丈夫?解けそう?」
 「…」
 「何が分からない?」
 「…」
 「どこまでは分かるけど、ここからが解けないとかある?」
 「…全部」
 「え?」
 「…全部わからないっす、最初から」

 これも後に判明したことなのだが、青山くんは本当に「全部」分かっていなかった。なんと、小学校で習うはずの分数の計算から何も分かっていなかったのだ。


 何も分からないんじゃ宿題が解けるはずもない。私はとりあえずその日出されている宿題が解けるように、教科書の当該単元を一から説明した。学校の先生が教科書を進めるように、例題の解説をしたあと練習問題を解く。そのあと採点をして、また解説をする。特別なことではない。

 私の授業を聞いたあと、青山くんは宿題に取り掛かった。彼は問題をすぐ解き終わり、その上全問正解だった。当の青山くんは自分が問題を解けたことに感動していたようだ。いつもの覇気のない雰囲気と打って変わって、目を輝かせながら私に話しかけてきた(!)のだった。

 「…先生、俺めっちゃ分かりました。高校入って初めて数学分かりました」

 それは良かった良かった、と私は思い授業を終えた。

 青山くんの初授業から数日経ったある日、私は塾長に呼ばれた。

 「あのね、青山くんが茅先生の授業ものすごく分かりやすかったってわざわざ言ってくれたのよ」
 「あ〜、それは良かったです」
 「そこでね、青山くんと私からのお願いされたんだけど…茅先生、青山くんの担当講師になってくれないかしら?」
 「…え?!」

 生徒−講師担当制がない塾で、異例の担当制を持ちかけられた。私はこの日から青山くんの専任講師になることになったのだ。

交わる

 専任講師になってから半年、あれだけ無口でぶっきらぼうだった青山くんは笑ったり雑談するようになっていた。授業も意欲的に聞き、時間通りに授業にやってきて、毎日自習をしに塾にやってくる。こんなにも人間は変化するのかと思った。これだけ青山くんが変化したきっかけは、(たぶん)青山くんが私にある「悩み」を打ち明けてくれたことである。


 夏期講習も終盤に差し掛かったある日、私はいつものように青山くんの数学の授業を受け持っていた。珍しく青山くんは「先生」と言い、私に相談があると言ってきた。

 「どうしたの?」
 「…俺、大学行きたいんすよ」
 「そうなんだ!何勉強したいの?」

 青山くんは黙っていた。それからちょっとして、「数学が好きだから、大学でも数学を勉強したい」とボソボソと言ってきた。「それなら理学部の数学科とか教育学部の数学科とかがあるかもしれないから、調べてみたら?」と私が言うと、彼はさらにこう言った。

 「俺、今定時制高校通ってるんすけど、小学校2年生から勉強してなくて勉強のやり方が分からないんすよ。学校の授業も教科書の途中で終わっちゃうし、進路指導とかもなくて友達とかも大学受験しないから、何か無理かなあって…(某MARCH)大学に入るの…」

 正直言って、青山くんの学力はMARCH合格レベルを大幅に下回っていた。5分の3足す2分の1を7分の4と答えてしまうくらい分数計算が苦手で、中学校で習う英単語が分かるか分からないかレベルだった。でも私はこの時、こう言った。

 「大丈夫だよ、受かるよ。あと1年半本気でやれば、いける」

 今思えばなんて無責任な発言だろうかと大反省モノである。でも、私は彼に「誰も受験しないから」とか「まともな指導をしてもらえないから」なんてしょうもない理由で「自分が本当に挑戦してみたいこと」「自分の本音」を諦めて欲しくなかったのだ。

 もしかすると、無意識のうちに大学で上手くいかずくすぶっていた自分の姿と重ね合わせていたのかもしれない。

 前進したい。だけど、どこに向かえばいいのか。
 本当は、向かいたい方向は決まってるんだ。でもなぜか進めない。

 自分に言い訳して、臆病になって、めんどくさがって、全てを理想のままで放置する自分を許せない気持ちはあった。それに、このままじゃダメだとも思っていた。

 私はその思いを全て青山君に投影して、ほっとけずにいたのだろう。

 かっこよく言えば「私と同じ人間になって欲しくなかった」から応援したんだろうし、かっこ悪く言えば「一種の現実逃避」だったんだろう。


 その日から私と青山くんは受験までの勉強計画を立て、彼はそれをスケジュール通りにこなしていった。

 夏休みが終わるまでに、算数の計算をマスター。
 新学期が始まったら、学校の複習と同時並行して昔やった単元の復習。
 冬休みが終わる頃には、学校では未修の範囲までスラスラと解けるように。

 私は数学しか担当していなかったのだが、その他の教科もどんどん成績が伸びた。どんどん青山くんはイキイキとした男子高校生へと変わっていった。

 彼が毎週見せてくれる週間勉強スケジュールは、びっしりと参考書や科目の名前で埋め尽くされていた。はじめの頃こそ1日あたり30分も勉強できなかった彼だったが、いつの日か毎日勉強する習慣が付いた。

 こんなに人は成長できるのか。

 サポートする側のはずである私の方が、彼の姿を見て希望を感じてしまった。


すれ違う

 大学2年生の12月。私はその個別指導塾をやめた。

 理由は様々あるが、ここでは伏せておく。

 青山くんの受験を最後まで見届けることができなかったのは非常に残念だったが、もう青山くんは私がいなくても自分一人で自分の夢へと走ることができた。途中、青山くんは成績が伸び悩び、気を病んで塾に来なくなったりしたこともあった。それでも歯を食いしばって頑張る彼は本当に立派だった。

 「先生、俺大学受かるから、大丈夫っすよ」

 青山くんは最後の授業の日、私にそう言った。

 ◇

 2020年3月。
 LINEが来た。私がかつて働いていた塾のグループLINEで、塾長が在籍する受験生の合否を書き連ねていた。

 その中に、青山くんのことも書いてあった。


 「青山君、(某MARCH)大学(某理系)学部合格」


 分数の計算ができなかった高校生は、MARCH理系大学生になった。

 よかった。
 そう思うと同時に、「青山君ならできると思ってた」とも思った。

 人はちょっとしたきっかけで良い方向へも悪い方向へも転がっていく。彼は本当は元々できる子だったのだと思う。実際、地頭の良さは度々垣間見えていたし、非常に努力家だった。ただ、ちょっとレールを外れたばかりに「できない奴」のレッテルを自他ともに見える位置に貼ってしまっていただけだった。それを彼は自分で剥がして、自分で元の道へと戻っていった。

 そんなことができる青山君のことを、私は尊敬する。
 だって、私もきっかけをいっぱい与えられたり見つけたりしたのに、変われないでいるんだもん。

 青山君、君は私を教師として見ていただろうし教えてくれる人だと思ってたと思うんだ。でもね、私も君からたくさんのことを教えてもらったんだよ。少しの思い込みと地道な努力でこんなに人は変われるんだってね。

 私ももう20歳になっちゃったけど、もう少し頑張ろうと思うよ。
 

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