見出し画像

ついついやってしまうこと、どこからくるの?

Day14 2024年8月16日(金)シンガポール時間9:00

“ついついやってしまうこと。”

4ヶ月前にこんなことを書いていたんですね。
時々過去の自分が誰なのか、わからなくなる時があります。
今日の私にとっては、その日のわたしには、

「よくやった!全部書いてあるじゃないか!」

と声をかけてあげたい。
曝け出すのは気をつけよう!どうしてか?ってことをがんばって残した。

ポイントは違ったからその辺詳しく書いてないけど、
ついついやってしまうこと
って書いてましたね。

今日は、そっちを残します。

どうして、人のことが気になるのか、ずっと考えています。最近思うのは、エネルギーのことなのではないかということです。

感じてしまう。
超能力者ではないので、知らない人のことを感じることはできないのですが、ご縁のあった人たち(もちろん、多々忘れちゃうこともあったりするけどね。)のことを意識的ではなく、ふと思い起こすことがあるじゃないですか?

ぜんぜん他のことをしているときに、ふと誰かのことが頭をよぎる。それが亡くなった人だったり、もう十年も会ってなかったり、関わってこなかったりした人でも、登場することがある。もちろん、頻繁にやりとりをしている人なら、そんなこと多々あります。

それで気になって気になって仕方がない時があります。

どこからくるのでしょうね?

それが、わたしの問いなんです。悩みでもあります。こう言ったことを話して聞いてくれる人はいいですが、わかってもらえてない感覚になる人もいます。

わかってもらえない系の人は、元々鈍い人か、感じることをシャットダウンしてる人だなって分類しちゃったりします。

元々鈍い人は仕方がない(いや、ご本人が困っているならなんとかしたほうがいいと思うけど)としても、感じることをシャットダウンしている(かもしれない)人だなぁとこちらが受け取るとき、開けてあげたいなーとか思っちゃいます。

めちゃ大きなお世話ですね。ご本人がやる気を出さないと仕方のないことなんで、その辺やっと、知らん顔できるようになってきました。

とは言えね、どんな人でも、
転びそうな人がいたら、手を差し伸べてしまうでしょう? 
その本能のようなものが発動してしまうのを抑え込むわけにもいかないのでね。
自転車を補助輪なしで乗り始める時みたいに、誰かがちょっと手を添えてあげると安心できるなんてこともあるかもしれません。だから、その手を添えることくらい、できるようになったらいいなぁ、そんなことを考えています。

ご縁があってここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
今日も良い感じの一日になりますようにー

今日も貼っておきます。


変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。
God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.

ニーバーの祈り:Wikipedia

いいなと思ったら応援しよう!

Mo
サポートありがとうございます〜嬉しいです