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本当に良い刀は 鞘に収まっている

「本当に良い刀は、鞘に収まっているものです。」
このセリフは、決め台詞的で印象的だが、当初は全く理解できなかった。

捨てばちだが浪人者で腕の立つ三十郎は、人質だがまったりとしている奥方にこう言われ、ギクりとするのである。

本当に良い刀とは?である。
三船演じる三十郎は、主人公でありながらヒロイックなヒーローなので、剛腕でやることなすこと物語を解決に導くパワフルさなのだが、そんな三十郎が本当に良い刀でなかったら、一体何が本当に良い刀なのだろうか。と思った。

結論から書けば、本当に良い刀とは振るわずとも敵を制する刀なのである。

同じ黒澤明の七人の侍をみても明らかであるが、黒澤は古来の日本の封建的体制に固執しており、その映画も最後は「またしても(侍の)負け戦であったか…」というセリフで締めくくられている。江戸時代の封建制度で言えば、階級上位者たる武家こそが世相を変えられる存在なのであり、つまり侍なら、本当に百姓たちのことを思うのなら藩や幕府の偉い人になって政治的に、抜本的に事態を解決するべきなのだ。七人の侍で言えば、一度撃退しても、また野武士に襲われかねない村に一時的に助力しても根本的にはどうにもなって居ないのであり、野武士を全員雇えるくらいの領地を得て襲撃者に身をやつす彼らを救ったりすることが本当に為すべきことだったのだ。


椿三十郎という作品も、最終的には城代家老の睦田の「ワシがもっとしとけば…」というくだりで物語を締めており、まあまさにそういった具合だ。

三十郎は剣の腕も立てば弁も立つが、おべっかを使えるタイプではなく、だから誘われても為政者側にならなかった(なれなかった)。
三十郎は、本当はああいった正義感のある無鉄砲な若侍たちのためを思うなら、お偉になって汚職を切り捨てる立場になるべきだということがわかっていながら、どうにもそうはなれないので苦虫をかみつぶしたような顔をしたのだ。


恐らく、黒澤作品としての解を示すならば、以上のような解釈が模範解答的なのだと思うが、私としては恐らく同じ黒澤フォロワーであり、私淑する山口貴由の解釈(妄想であるが)も好きなので紹介しておく。

和彫のやくざで浪人者。やくざ讃歌は嫌いだが、山口のは真摯に描かれているので許せる

氏の作品である蛮勇引力では、主人公の正雪が、決戦の死地に赴く前に恋人の歩と交わるシーンで「歩は鞘 正雪は刀 / 修羅の後、帰するは鞘 / 朝顔の花言葉は 固い約束」という詩が書かれる。

後半はとにかくセックスシーンが多い。

山口貴由は詩人で、作中に書かれる詩はどれも美しく説得力に満ちているのだが、この詩もその中でトップを争うものの一つである。


この蛮勇引力は、主人公の正雪という浪人(平たく言えばニートだ。彼は「(特に東京で)働いたら負け」という信念をガチで行っている。)が産業的に開花した東京にテロリズムを働く物語で、初登場時は鬼のような信念と単身無策でテロリズムを行う覚悟のキマり具合からそれはもうカッコイイのだが、物語の中盤くらい(歩が登場したくらいからである)から、なんか丸くなっちゃって、終盤はなんか優しいお兄さんという感じになってしまい残念なのである。

が、しかし、よくよく読み解けば正雪は丸くなって退化したのでは無く、まさに「鞘」である歩、やすらぎの面々との邂逅によって進化したと考えることもできると思うのだ。

山口貴由の他の作品にも頻繁に描かれているが、氏の作品では「反体制」と「愚連隊となることの賞賛」が重要なテーマで、とにかく主人公は終始反抗に身を置いていることが多いので苦労しっぱなしなのである。

流されず奔流に逆らう精神は、すごくパワーが要るだろうし疲弊を伴うことであろう。
特に、ほぼ世界人類全体みたいな相手と闘う正雪は並みならぬもので、でもセーブポイントというか、やすらげる場所(鞘)があったからこそ、最終回ではついに目標を成し遂げたのではないかと思うのである。


山口貴由の別のインタビュー(どこに記載されていたものかは失念してしまった。シグルイの巻末だっただろうか)では、「真剣になるとは、”真剣”になることである」と語っており、山口は「刀」たる精神性、そして鞘の大切さを感じていたのではないかと思うのである。(そういえばシグルイの終盤でも「刀を研ぎすますように」"いく"が伊良子の身体を拭くシーンがあった。)
伊良子が刀であるなら、それを支える"いく"は鞘なのだろう。
一方で、相対する宿敵であり主人公の藤木にとっては、三重が鞘…と思われるが、そう言い切れるわけでもない。伊良子が藤木に殺された直後、三重も自害して死んでしまうからだ。劇中何度も描写されているところではあるが、三重は当初からずっと伊良子にゾッコンであり、今や壊滅状態になってしまった実家兼、剣術道場の虎眼流を復興せしめる唯一の存在である藤木を仕方なく支えている状態なのだ。藤木のことを愛そうと努力するし、伊良子のことは「憎い、憎い伊良子…」と憎んでいるが、その憎しみ自体が好きの気持ちの裏返しであり、藤木にとって十分な鞘足りえたかは、はっきりしない。


一方で鞘の無き愚連隊として描かれていたのは、エクゾスカル零の葉隠覚悟だと思う。エクゾスカル零は、安らぎというか、セーブポイントというか、そういう安心できる場所が一切無いポストアポカリプスで、終始退廃的な空気に満ちている。覚悟は、この世界の中、斃すべき敵も見つけられず孤独にあえぐのだが、
彼にも覚悟のススメの時のように三千の英霊が寄り添っていてくれたのなら、もっと別の結論もあったのかもしれない。

三千の英霊は、覚悟のことが好きで好きで、もうそれは「あなたのためなら地獄まで付いていきます」みたいなレベルであり、真剣のような覚悟を包む、文字通り鞘のような存在であった。



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