幸せについて考えるとき思い出すこと
上の娘を育てていたころ、公園でよく会うお母さんがいた。
当時、3歳と1歳の姉弟を子育てしていて、私よりよほど大変な環境にいるんじゃないかと思うのに、私から見て大変に見えることはいつもガハハと笑って豪快に笑い飛ばしてしまう人だった。
彼女は、見た目がダンプ松本を一回り小柄にしたような人だった。
なので、とりあえず、この文章の中では「ダンプ母ちゃん」と呼ぶ。
ダンプ母ちゃんは18歳のときに、15歳上のトラックドライバーをしていた旦那様にべたぼれされて仕方なく結婚してやったのだと言っていた。
旦那様は今も、会社で若い嫁を貰ったとみんなにうらやましがられているのだとも言っていた。
ダンプ母ちゃんの子どもは、二人とも人懐こくて、公園でうちの子におやつをあげてると
「それなあに、ちょうだい」
と寄ってくる子たちで、ダンプ母ちゃんは、それを見ると
「みっともない真似すんな!」
と後ろから平手で頭をぶん殴る人だった。
当然子どもたちは、ワーワー泣く。
ダンプ母ちゃんは、あやしもせず、タバコを吸いながら泣き止むのを待っている。
子どもたちは、泣き止むと
「おかあさーん」
とくっついていく。
ダンプ母ちゃんは
「人のものを何でも欲しがるな。おやつが食べたかったらうちに帰って食べてこい、すぐそこなんだから」
と子どもたちに言う。
子どもたちは、言われて、あ、そうか、とばかりに二人で手をつないで家にかけていく。(住宅街の真ん中にある公園の小道を挟んだ正面が彼女のおうちだ)
ダンプ母ちゃんは、冬になると電気カーペットの上で子どもと三人で昼寝するのが至福のひと時だと言っていた。
なかなか寝ない子どもを育てていた私は、いっぺんに二人同時に寝かしつけるなんて、神か?と思い、どうやって寝かしつけているのか聞いてみた。
「寝かしつけなんかしないよー。こっちが先に寝ちゃえば、子供だって仕方ないから寝るよ。がはは」
聞いて目が真ん丸になった。
当時、私がそれらの様子を見てどう思っていたか。
「なんで、この人、この見た目で『べたぼれされて仕方なく結婚した』なんて言えるんだろう?」
「この見た目で、若さって意味ある?」
「なんで、この人、子どもに平気で手をあげるんだろう?」
「なんで、この人、子ども泣かせて平然とタバコを吸っていられるんだろう?」
「そもそも、なんで子どもがいるのにタバコ吸うんだろう?」
「なんで、この人、子どもたちだけで道路を渡らせるんだろう?」
「なんで、この人、子どもが寝る前に自分が寝ちゃえるんだろう?」
「なんで?」
「なんで?」
「なんで?」
会うたびはてなマークが渦巻いていた。
いや違うな。もっと正直に言うと、会うたび
「なんで、こんなに身勝手な育児をしているように見えるこの人が幸せそうで、ちゃんと頑張ってる私は幸せじゃないんだろうか」
と嫉妬してはいらいらしていた。
その後、わが夫君の社命で社宅に入るべく引越しをしてしまったので、彼女と会うことはなくなった。
が、その後も、私は幸せそうだった彼女を頭から否定して、あんなの幸せじゃないもん、ぜったいああはならないもん、私は子どもに手をあげたりしないし、子どもを一人で道路を渡らせたりしないし、子どもが寝る前に寝ちゃったりしないもんと、自分を鼓舞しているつもりで呪いをかけまくっていた。
「見た目がかわいくないと不幸になる呪い」
「子どもをたたいたら不幸になる呪い」
「子どもから目を離したら不幸になる呪い」
呪いは次々発動して、自分に制限を課すたびに、不幸は増えた。
まだまだ、もっともっと、ちゃんとちゃんと。
馬鹿だったと思う。
人の幸せは、その人が決める。
その人が幸せだと思うことを、他人が、あれは幸せでなんかじゃないと決めつけるのは失礼だし、そう思うことで、自分が不幸になる種を自分に植えている。
知らなくて遠回りした。知らなくてすごく損をしたと思う。
制限を外した自分が、自由な自分が、一番幸せなのだと、子どもたちが独立してやっと思い出した。
幸せについて考えると、いつも思い出す、ダンプ母ちゃんのこと。