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選ばなかった選択肢に心を残すことと罪悪感を持つことの弊害

私は、ずっと自由が欲しいと思っていた。

充分自由なのはずなのに、もっとくれ、もっとくれと。

好きなようにやらせて!あなたの思うようにはしたくない!自分で決めたい!

大騒ぎして自由な環境は手に入れていたわりには、
心はかえって不自由になっており、
これは一体どーいうことなんだろうと思っていた。

いろんな本を読み、いろんな人の話を聞き、どうやらこの辺に鍵がありそうだと思うことを書いてみる。

選択について、だ。

言うまでもなく、「自由」とは「選択肢」の多さである。
物理的にも、心理的にも、その時の自分が一番幸せでいられるモノや見方を瞬時に選べる人は、幸福度が高い。

今、何が食べたいのか。
どんな服を着たいのか。
どこの街に住み、誰と付き合いたいのか。

瞬時にこれらの問いに答えられる人は、目の前にそれらが現れた時、すぐに手を伸ばせる。
これ即ち物理的自由。
多くの選択できるものの中から、自分の一番を選び取ること。

上司に叱られた。
子どもが言うことを聞かない。
義両親とうまくいかない。

不快なこれらの状況において、理不尽なことにはきちんと抵抗し、自力でなんともならないことについては諦め流し、自分の中のコントロール欲求を手放して、明確な他者との境界線を引く。
あるいは、あくまでいい人の顔をして、他者に踏みにじられても我慢し、自分を犠牲に差し出して波風の立たない日々を送る。

どの方法を選ぶかは自分次第なので、選んだ結果については自分で引き受け、他人のせいにしない。
これ即ち、心理的自由。

さて、物心どちらの場合にも大切なのは、選ばなかったものに執着しない、ということと、選んだ自分に罪悪感を持たないことではないかと思う。

わたしは、自由が欲しいと言いながら、いざ手に入ると、それが誰かの犠牲の上に得られたものではないか、とうまく受け取れなかった。

たとえば、私は、第一子の子育ての際に、働くという選択肢しかなかったわけではないのに、子どもと向き合う日々がつらくて働くことを選んだ。

完全にわたしの都合だ。

夫の収入だけでも充分食べていけたのに。

結果、昼間に好きなように働ける自由な時間を手に入れたが、朝、別れ際に泣いていた子どもに対して、罪悪感を抱くことになった。

私が、育児を楽しめる母であれば、泣かせなくても良かったのに、と、選ばなかった(選べなかった)選択肢に心を残した。

こんなのは、気にしても仕方のないことだ。だって、別の選択肢を選べていたなら、絶対にそちらを選んでいたはずだから。

その時の私は、子どもを預けて働くことを選ぶしかないくらい追い詰められていたのだから。

なのに、少し余裕が出てくると、できなかった自分を責めて、どうしてあの時、私は子どもといることを選べなかったのだろうか?と考え出す。

選ばなかった選択肢に心を残すと、いつまでも同じことをうじうじ考え続けて前に進めない。

そうではなく。

選んだなら、それ以外の道は、最初からなかったものとして消す。

選んだものだけに心血を注ぐ。

それが選択するということ。

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はんだあゆみ
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