はせがわくんきらいや
その昔読んでもらって、長いこと心に不快なトゲとして残っていた作品がある。(今は大好きな作品の一つです)
長谷川集平さんの「はせがわくんきらいや」という絵本である。
小学四年生当時、担任の先生が給食の終わり頃に10分間、本を読んでくれる時間を設けてくれていて、私はその時間が大好きだった。
今思えば、かなり左寄りの先生で、本のチョイスも「猫は生きている」だの「広島の姉妹」だの「ふたりのイーダ」だの、まあとにかく、戦争反対を弱者視点で植え付けようとするカラー丸出しだったのだけれど、いずれも文学作品としても素晴らしく、時には涙ぐみながら聞いていた。
「はせがわくんきらいや」もそんな先生が選んだ一冊だった。
最初はとにかく「できないくせになんでも一緒にやりたがる長谷川くんって、なんて迷惑なの?!」と私も長谷川くんが嫌いだった。
読後に先生が、新聞記事の切り抜きなどを回して見せてくれながら、森永のヒ素ミルク事件というものを教えてくれた。
そしてこう言ったのだった。
「世の中には、長谷川君のように、自分の気持ちとは無関係に体が動かせなかったり、弱かったりする人たちがいるんだけれど、みんな同じように生きているんだから、嫌っちゃダメなんだと思うんだ」
え?!嫌っちゃダメなの?
素直な私は「障害のある人を嫌うのは悪いこと」と簡単に洗脳され、そのインプットが消えないまま、(さらに言うなら拡大され、「人をむやみに嫌ってはいけない」という思い込みを持ったまま)大人になることになる。
この思い込みは、嫌なことをされても、相手を嫌えないという防御力ゼロの性格を生み出し、「相手が悪くないなら悪いのは私なのか?」というむちゃくちゃな論理展開の元、自分を嫌い、いじめ、否定するという負のサイクルに突入していくことになるのだけれど、そのお話はまた。
話は小学四年生の教室に戻る。
クラスには、転校生の男の子が一人いた。
田舎の小学校には転校生が珍しい。
なので、彼は最初はみんなに「しんちゃん」「しんちゃん」と呼ばれ人気者だった。
珍しさが消える頃になると、翳りが見え始めた人気回復のために、彼はモノで釣ることをし始めた。
つまり、家から「ノート、消しゴム、シール」などを持ってきて、配ることで自分の存在価値を示そうとし始めたのだ。
当然、小4の子どものお小遣いがそんなに続くわけもなく、妹の大事なシールなども持ち出していたようだ。
一部の女子たちは、サンリオの可愛らしいキャラクターグッズに惹かれて、また「しんちゃん」と寄っていった。
が、すぐにしんちゃんのお金は底をつき
「明日持ってくるね」
と言ったものが、翌日手に入らないということが何度も繰り返されるようになった。
すると、女子たちは手のひらを返したように
「あの子、嘘つきだから嫌い」
と誰も近寄らなくなった。
そして、秋になり、遠足シーズン到来。
班行動が基本なので、仲のいいもの同士が班を作る。
一人余るしんちゃん。
今思うと、マジですごいな、よくクレームが来なかったな、と思うのだが、学級会で
「なぜしんちゃんを自分たちの班に入れたくないかを、一人ずつ語る」
ということになった。
みんないろんなことを言った。
「嘘つきだから」
「できるって言ったことをやらないから」
「吃ってて、何言ってんのかわかんない」(この頃になると、いじめのストレスなのか、チックのように吃りが出始めていたのだ)
「禿げてるし」
要するに、理由はなんだっていいのだ。嫌いなもんは嫌い、これに理由なんかないのだ。
私はもともと彼と接点が無く、ほとんど話したこともなかったから、好きも嫌いもなかったのだが、班長をやらされていたため、私の独断で彼の加入を認めると突き上げを食らうという予想があった。
なので
「別に嫌いじゃないけど、同じ班にはなりたくありません。みんなが嫌だと思うから」
と言った。
先生の目が光った気がした。
放課後、先生は私を呼んでこう言った。
「あなただけが、しんちゃんを嫌いだと言わなかったわよね?じゃあ、しんちゃんが同じ班にいても、あなたは嫌じゃないのよね?なんとか、同じ班の子を説得してみてくれない?ひとりぼっちじゃ、しんちゃんも辛いと思うの。かわいそうでしょ?」
マンツーマンで言われて、嫌ですと即答できるほど気も強くなかったので
「はぁ」
と答えつつ、気は重かった。
みんながオッケーというはずがないからだ。
説得する義理もないし、そもそも説得したいと思っていない。
なんで班行動なんてめんどくさいことするんだろ?どうせ、お弁当を食べる時くらいしか一緒にいないのに。
翌日、同じ班の子を集めて、先生に言われたことをそのまま伝えてみたところ、予想通り、満場一致で「ノー!」だった。
休み時間に先生にそれを伝えに行くと
「そう。で、あなたは、みんなになんと言って説得したの?」
と聞かれた。
「説得はしてません。別に同じ班にいてほしいとは思ってないから」
先生は、持っていたノートをバンと机に置くと、
「見損なったわ!もういい、あなたには頼まない」
と言って、後ろを向いた。
なんと言っていいのかもわからなかったので、そのまま職員室を出たが、全然釈然としなかった。
私、何か悪いことした?
勝手に頼んで、勝手に見損なって、八つ当たりされただけのように感じるんだけど、私の感じ方が変なの?
「はせがわくんきらいや」の中では、子どもはちゃんと「嫌い」を表明する。
長谷川くんが仲間に入ることで、自分たちにはこんなに不利益があって、本当にめんどくさくて、困ってるのだ、と表明する。
「見た目なんて、一番触れちゃいけないとこでしょ?」と大人の私が思っている、そこも簡単に飛び越えて突っ込んでくる。
けれど、いやでも、めんどくさくても、大変でも、しんどくても、一緒にいると、最後には
「だいじょうぶか。長谷川くん」
という言葉が出てくるようになる。
そこに大人の余計な介入はない。
この本に出てくる大人は、長谷川くんのお母さんだけだ。
長谷川くんにヒ素入りミルクを飲ませてしまった静かな罪悪感と悲しみを抱えて、長谷川くんに寄り添うお母さんに対して、子どもは容赦なく「なんでそんなミルク飲ませたん?」と聞く。
タブーが無いところで発せられる言葉は、お互いを傷つけないのだな、とわかる。
そして、その悪意のないやりとりこそが、関係を作るものなのだな、と。
私は小四の時の、あの出来事を振り返るたび、関わる子どもたちの「嫌だ」「きらいだ」をできる限り受け入れたいな、と思う。
それこそが、仲間になるための早道だと思うし、大人の余計なコントロールくらい、子どもを傷つけてしまうものってないよな、と思うからだ。
ちなみに蛇足ながら付け加えておくと、私は自分の「嫌だ」を認めてもらえなかったから傷ついたわけではない。
たとえば、班分けがあみだクジなど、だれが見ても結果が公平なものならば、あらかじめそれに同意した者は結果の如何に関わらず受け入れなくてはならない、と思う。もし、先生が、それを私に伝えたのであれば、私は不本意ではあっても納得はしただろう。
また、「好きな者同士で組んで良い」という前提で話を進めるなら、班分けが遠足の前日までかかろうとも「全員一致」の結果になるまで、子ども同士の意見のぶつかり合いを尊重して欲しかった。
私が嫌だったのは、「トラブルが起こることが予想されるシステムを採用しながら、そのトラブルを誰か一人におっかぶせて、解決した気になろうとした先生」だった。そして、先生に「この子になら、おっかぶせてもよい」と判断される自分が悲しかった。大切にされている感じが、微塵もしなくて、そこがたまらなく嫌だった。
ところで、最後に、小四のしんちゃんがどうなったのかを書いておく。
しんちゃんを率先していじめていたガキ大将が、
「俺のグループに入れてやる、代わりにお前は、俺のいうことなんでも聞けよ」
としんちゃんに伝え、しんちゃんはそれを喜んで受け入れた。
遠足当日、しんちゃんは二人分のリュックを背負い、お弁当のミートボールも根こそぎ奪われたそうだが、それでも楽しそうだった。
先生の思い描く形ではなかったと思うが、どんな形でも、子どもが見つけた解決なんだと今は思っている。
そして、「はせがわくんきらいや」は、子どもの見つける解決にこそ光がある、と考える作品だと思っている。