【100カノ】静ちゃんの語彙力を考察してみる
まえおき
「もっと本を沢山読んでいれば良かった。」と猛省する日々を過ごしております。そんな後悔から、最近では意図的に本を開く回数を増やしているのですが、そうしていると新たな言葉や考え方に出会うことが格段に増え、なるほど確かに読書によって得るものは多いのだろう、と実感しております。
そしてそれと同時にこのような考えが湧いてきたのです。「では、読書を幼少期から始めていたらどうなっていたのだろう」と。
というわけで、せっかく100カノを読んでいるのだから、作中きっての読書家である静ちゃんを参考にし、彼女の語彙力を考察してみることとします。また、静ちゃんは本を使って話すという唯一無二の特色も持っているのですから、その点についても考えていこうと思います。
本好きと語彙力
世間では「本を読む人は語彙力がある」というのは過去も現在も変わらない共通認識であり、今後もそれが覆ることはまず無いと言っていいでしょう。
そもそも語彙力とはなんでしょうか。単に「難しい言葉をどれだけ知っているか」ではありません。もちろん多く知っているのに越したことはないので、語彙を増やすことを怠ってはならない。しかし、これだけでは“語彙が豊富”なだけで終わってしまうのです。
語彙力とは「自分の中にある言葉をどれだけ上手く使いこなせるか」という要素こそが肝心なのです。これらを手に入れるためには、多くの文章に触れて様々な表現に出会うことが必要となります。そのため、読書家や本を楽しんで読めるような人は語彙力が高いとされるのです。
いくら小難しい言葉を並び立てたとて、適切に使えていなければ駄文に過ぎません。平易な言葉だけを用いようが、使いこなせば名文となるのです。
とはいえ、本をあまり読まない人でも高い語彙力を有していたり、その反対に本を多く読むにも関わらずそれが乏しい方もおります。この場合、前者はそれまで読んできた文章の質が高かったり、読み方が上手な場合が多い。また、出会った表現をすぐに自分のモノにしてしまうような、学習能力の高い人間であると考えられます。後者の場合は徒に文章を読んでいることが原因であったり、読んだ文の質があまり高くないものであったと思われます。
このような特殊な例は確かに存在するのですが、これが「本を読む人は語彙力がある」を否定する根拠にはなり得ないでしょう。既に数多くの研究によって読書量と語彙の相関関係はすでに認められていますからね。
それにそんなデータに頼らずとも、身近な読書家からそれを感じたことが一度ぐらいあるのではないでしょうか。自分には思いつかないような言葉遣いや言い回しをする人に出会ったことがあるのではないでしょうか。
では、静ちゃんの語彙力はいかほどのモノなのでしょう。
語彙数
まずは静ちゃんの知っている言葉の数、いわゆる語彙数から考えてみます。これについては増やそうと思えばいくらでも増やせてしまいますので、最低でもどれくらいあるのか、ということに焦点を当てていきます。
85話(10巻収録)で凪乃さんが「好本静の読書量は一般的な人間のそれを遥かに凌駕している」と評していたり、その前後の会話から、大半の有名文学作品から近年の作家のものまで、あらゆる“物語作品”を網羅していると考えられます。語彙を増やすためには“ノンフィクション”作品を読むことが効果的である、ともされていますが、静ちゃんは偏りなくあらゆるジャンルの作品を読んでいる可能性が高く、ただ数冊のノンフィクションを読むだけでは到底及ばない程の語彙を有していると考えられます。このことから、平均的な高校生、もっと言えば社会人すらを大きく上回ると推測ができます。人の持つ語彙数を判定することは大変難しいものであるため正確な数値はわかりかねますが、一般的に大人の語彙数は5万語が平均と言われています。ということは、静ちゃんの語彙数は5万語よりは多いと言えるでしょう。
ただ、この結論ではあまりにも貧相ですから、もう少し絞るために辞典の見出し語の数からも推測してみます。
国語辞典は、大まかに三つに分けられます。
(1)小型国語辞典:ほとんどが日常生活で用いられるような言葉で構成されており、見出し語の数は基本的に10万語以下。三省堂国語辞典、明鏡国語辞典などが該当します。
(2)中型国語辞典:日常生活における言葉だけでなく、固有名詞や専門用語、古語なども収録されており、見出し語の数は約25万語。広辞苑、大辞林などが該当します。広辞苑って実は中型なんです。あんなに分厚いのにね。
(3)大型国語辞典:国語国文学をはじめ、多くの社会科学や自然科学の研究者らも編纂に協力しており、見出し語の数はなんと50万語!
大型国語辞典は日本国語大辞典しかありません。
さて、静ちゃんが文学作品を中心に読み、何かしらの分野の専門的な書物を読むことが少ないと想定すると、中型国語辞典よりも語彙数が多いとは考えられにくいので、25万語以下であることは確定して良いと思います。しかし、彼女の読書量から、日常生活では用いられないような言葉をある程度知っていてもおかしくはないでしょう。
文豪が書いた小説をパラパラめくってみるだけでも、知らない言葉に出会うことは多々あるのですが、それらの言葉には小型国語辞典には載っていないものもしばしばあります。それを踏まえると、小型国語辞典以上の語彙数はあってもおかしくないと考えられます。
よって、ここでの結論としては「10万語以上25万語以下」とすることにします。
理解語彙と使用語彙
話を聞いているときや書物を読んでいる際に、意味は分かるけれど自分から使うことのないような言葉に出会ったことはありませんか。それこそが“理解語彙”です。字面から気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、もう一つの“使用語彙”とは自発的に使うことができる語彙のことです。その性質上、使用語彙は理解語彙よりもかなり少なくなることが分かりますね。前章の『語彙数』では静ちゃんの理解語彙の数を考察していたのです。
「僥倖!!!!」
これを見ただけで100カノ34話(5巻収録)を思い浮かべたみなさんは間違いなく100カノ中毒者でありましょう。僥倖とは「偶然に得た幸せ」という意味ですね。しかし、この言葉を知っていても日常生活で当たり前に使う人がどのくらいいるのでしょう。これがいわゆる理解語彙であります。
もしこの話を読んでこの言葉が印象に残り、日常生活においても自発的に使うようになったならば、それが”使用語彙に成った”と言えるわけです。ひょっとすると、元から使用語彙だったという方もいらっしゃるかもしれませんね。
では、静ちゃんの使用語彙はといいますと、答えは「テキスト読み上げアプリに登録された王冠恋物語の冊数」です。彼女は王冠恋物語のどこにどんな言葉があるかを完璧に把握しており、常にそこから語彙を選択しています。大半の人が思いつかないような言葉であっても、本の中にそれが書いてさえあれば引用することが可能なのです。
また、自分の感情をそのまま出すのではなく、あくまで一番近いものを選択するため、個性的な言葉遣いが可能となっているのです。逆に言えば登録されている語彙以外は使用することができないため、その点では不自由とも言えます。
しかも本の内容を知らなければ通じないような言い回し、いわゆる内輪ネタになるような言葉はあまり使うべきではないため、その分の選択肢も少なくなってしまいます。
100カノ読者が何かしらの失敗をしたときに「死にまちゅ…」と発言する方がいらっしゃいます(かくいう私もそのうちの一人であります)。100カノを知る者同士ならば「生きろそなたは美しい」とか「責任感の申し子」と返すことができます。しかしながら、100カノを知らない人から見れば「なんやこいつ」となるだけでしょう。
本を使って会話することは、使用語彙という一つの観点で見るならば、メリットもデメリットも存在しており、一般的な高校生の使用語彙と比較することは難しそうです。
誤用の可能性
なんとなくで覚えて、なんとなくで使ってしまった言葉が実は誤用だった、という経験をしたことはありませんか。私は数えきれないほどあります。「確信犯」・「敷居が高い」など、間違えて覚えた言葉がいくつもあり、正しい意味を教えて頂いた回数はつゆ知らず。
「おもむろにバッグから本を取り出す。」
さて、どんな意味で捉えましたか?“何の脈略もなく”や“いきなり”と勘違いしてしまう方がちょくちょく見受けられます。「おもむろに」は漢字にすると「徐に」と書きます。そう。“ゆっくりとした動作で”が正しい意味なのです。なんとなくで使っている言葉を見直してみると、思わぬ発見があるかもしれません。
作中でも明らかな誤用が訂正された事例があるので紹介します。40話(6巻収録)で美々美先輩が凪乃と「美しさ探し」をする直前の場面です。ジャンププラスでは「雪辱を晴らさせて」と書かれているのが、単行本では「屈辱を晴らさせて」と訂正されています。“雪辱”とは「受けた“辱め”を“雪(そそ)ぐ”」ということ。であれば、雪辱を使うならば「雪辱を“果たす”」が正しかったのです。
使用語彙の基となる理解語彙。その“理解”が正しくないから誤用が生まれてしまうのです。どんな書物の作者だって人間である以上、間違いはでてきてもおかしくありません。静ちゃんであっても、王冠恋物語の作者である本尾角夜先生のミスによって間違った知識を仕入れてしまい、誤用をする可能性は大いにあるのです(ナディー先生クラスまでいくと才能と呼べるのかもしれませんがね)。
近年では「多少の誤用はご愛嬌」という風潮のようです。当然言葉とは変化していくものでありますから、通じれば良いといった意見も筋が通っていると言える。その考えも受け入れる必要はありましょう。だからと言って、間違えを棚に上げたり、むやみやたらな言葉遣いを容認する理由にはして欲しくないものです。
閑話休題。とはいえ前提条件として、本尾先生は言葉のプロでありますから、そもそも誤用をしてしまうような可能性はかなり低いはずですね。ですから、静ちゃんが誤用をする可能性も相応に低くなるはずなのです。
さらに、数多くの本を読む静ちゃんであれば同一の言葉に出会い、別の意味で使われていることに気づく機会があるかもしれません。そういうことがあるとすれば、その際に正しい言葉の意味を調べ、正しい知識を得ているのではないでしょうか。
したがって静ちゃんは人よりも言葉の誤用を起こす可能性は、他人よりもたいへん低いと考えられます。
使いこなす力
これに関してはピカイチでしょう。人間は日常での会話の中で覚える言葉はほんの僅かであり、大半の言葉は他の媒体を通じて習得します。静ちゃんは他人よりも数多くの物語を読み、生きた文章の中で言葉を覚え、生きた文章の中の言葉をそのまま使うのですから、この力は間違いなく常人よりも高いはずです。場の話題に応じて王冠恋物語の文中から最適解を瞬時に判断することができるという点でも、使いこなす力を人一倍持っていることが分かりますね。喩えるならば、相手よりもかなり多くの手札を持った状態でトランプの七並べをするようなものでしょうか。他の誰もが場に出せるカードがない中で、静ちゃんだけが出せるカードだってあるのです。
静ちゃん特有の言い回しは「使用語彙がある程度限られていること」によって起きています。
「限られている」というと悪いように感じてしまいますね。確かに、静ちゃんが求めている言葉にドンピシャリなものが無ければ発言に困ることもありましょう。例えば、13話(2巻収録)では、“楠莉先輩”と言えないがために、“薬物を支配せし者(ドラッグルーラー)”と言い換えた。しかしですよ、これを彼女らしさと言わずしてどうしてくれましょうか。限られているからこそ表現できないものはあれど、限られているからこそ表現できるものがあるのです。
だから静ちゃんは、普通の女の子みたいに話すこともあれば、ナレーターのような説明口調で喋ることもある。時にダンディーなセリフで頼もしさを見せつけたかと思えば、いきなり小物のような発言をしてみんなを和ませる。その時点での己の感情に合わせて、時におふざけを交えながら、限られた広大な世界の中で、彼女は誰よりも自由に言葉を操るのです。
まとめ
ここまでいくつかの章に分けて静ちゃんの語彙力を考察してきましたが、作中からわかることだけでも一般的な人と比べてかなり高い語彙力を有していることがお分かりいただけたと思います。
そして、静ちゃんが本を使った会話をし続け、ファミリーが増えたり、王冠恋物語の新刊が出るごとに、彼女の語彙は増え、感情はより豊かに、かつ正確に表現できるようになるのです。七並べの喩えを再び持ち出すならば、手札が増え続けるということ。
しかしそれはまた、会話に本が不必要になったときだって同様なのです。選択肢が見えにくくなっただけであって、それまでの人生で培ってきたものから言葉を紡ぎだすという意味ではなんら変わりはないのです。けれども、前述したとおり現段階では、語彙が「限られている」おかげで「“今の”静ちゃんらしさ」は形作られているのです。もしこれから本だけの世界から脱却するようなことがあったら、これまでのような静ちゃんらしい独特なセリフを発しなくなるかもしれない。若干のズレによって生まれた面白さは見られなくなるのかもしれない。
でも、今まで得てきたものは仮初でない。目に見えなくとも、間違いなく彼女に中にあるのです。持っているものを全部を注ぐことで、「“新たな”静ちゃんらしさ」が生まれるのであります。
どちらの方法を取ろうと、そこから出てくるものは間違いなく静ちゃんの言葉そのものには変わりありません。紡ぎだされる言葉とは人生そのものでありますから、それを否定することは、同時に人生を否定することになる。何人たりとも、そんな権利なぞ持っているはずがない。だからこそ、私たちは言葉に寛容にならねばならないのだと思います。
静ちゃんの変化する部分も、不変の部分も、彼女がどのように成長していくのか。私たちはそれが描かれる日をただ待つことしかできません。それを見ることができる日が楽しみであります。
終わりに
こんなところで締めようと思います。今回は自分が今できる範囲でどこまで考えて書けるか、という挑戦でもありましたが、作品を突き詰めたり、もっと幅広い知識を得られれば、さらに良いものが書けると思えました。
面白いと思っていただければそれより嬉しいことはございません。最後までお読みくださりありがとうございました。
おわりです!