今更だけどイエスタデイをうたってについて語ろう
※ヘッダー画像は『イエスタデイをうたって』1巻98Pより引用
過去作品のアニメ化は最近の風潮だが、てっきり有名作ばかりだと思っていたのでこのニュースには心底驚いた。個人的には平成最後の大ニュースで、この作品がアニメになるなどまるで予想だにしてなかったのだ。
と、言うのも冬目景の描く「イエスタデイをうたって」は有名作というわけではないからだ。かといって知る人ぞ知る隠れた名作というわけでもない。その位置付けは作中の人間関係のように一言では説明し難く、あえて定義付けるなら「忘れ難い作品」になるのだろう。同作者の作品としては完結しているというのもあって、恐らく「羊のうた」が一番人気かつ有名ではあると思うのだが「イエスタデイをうたって」には密かな愛好家が多く、何を隠そう僕もそのクチである。
最初にこの作品を知ったのは今から20年ほど前の中学生の時で、週刊少年ジャンプの広告ページに載っていたワンカットがそのきっかけである。新聞を読むリクオと背中合わせで微笑んでるハル。このたったワンカットに僕は惚れてしまった。ハル曰くそれは錯覚であり、なぜか忘れられないものであり、見た瞬間に頭の中の何かのスイッチが入ってしまうものである。野暮なのでその感情が何かは書かないが、慌てて本屋に行き、当時2巻まで出て休載していたそれを買い、貪るように読んだ。
ストーリーは端的に説明すればこうである。大学を卒業したものの、いまいちやりたいことが見つからずコンビニバイトに甘んじているリクオには、兼ねてより想いを寄せている女性がいた。大学の同級生であるシナ子。頭が良く、面倒見のいい彼女に引け目と憧れを同時に抱えながらも告白する勇気はなく、ただひたすらに毎日を過ごす彼の元に、カラスを連れた謎めいた美少女ハルが現れる……。
※『イエスタデイをうたって』1巻97Pより引用
ラブコメ、というにはコメディ要素は少なく、ラブストーリー、というにしては愛は定まらず話は動かず関係性も遅々として進まない。ロマンチックラブイデオロギーにも振り切れない。なんとも奇妙な味の「じれったい」作品である。とはいえ、この大学卒業後に自分の未来を決定づけられなかった人間たちの抱く、言いようのない虚無感と惰性で過ごす日々の移り変わりが妙にリアルで、作中の年齢に近づいた時の再読は文字通り胸に突き刺さった。「社会のはみ出し者は自己変革を目指す」はこの作品の章タイトルの一つなのだが、これほど端的に『イエスタデイをうたって』という作品を表している言葉もない。
※『イエスタデイをうたって』1巻38Pより引用
作品全体を薄膜のように包む茫洋とした空気感。その正体は言ってしまえばモラトリアムであり、簡単に割り切れず、また脱せない状態の一つである。好きに生きるのも絶望するのも、どちらも才能が必要で、何もない人間はただ生きていくしかない。それでも変わりたい、変わらなきゃいけないというのは誰しもが痛感することであり、そうであってもやりたいことなどそう簡単に見つからない。脇目もふらずに頑張るには経験値が足りず、情熱だけでいけるほど若くも無鉄砲でもない。こう生きればいいとは誰も教えてくれず、学校を卒業しても人は簡単にオトナになれない。オトナへの猶予が迫る中、決断をジワジワと迫られる焦り。これはそんな中に放り出された孤独感と、前に進めない人間たちとの馴れ合いではない奇妙なつながりの物語である。
※『イエスタデイをうたって』1巻72Pより引用
あとですね、ヒロインのハルがめちゃくちゃ可愛いんですよ。デレやらツンやら甘々やらイチャイチャやらを期待するとアテが外れるが、こういう女の子がいて欲しい人生だったと思う人は恐らく僕以外にも沢山いるだろう。
ようやく本編映像のPVが公開されたが、あまりにも世界観の再現度合いが完璧すぎて見るだけで涙を流してしまった。いやはや……本当に生きててよかった。完結まで13年。アニメ化までは18年。僕はすっかり大人になってしまったけど、青春はいまだにイエスタデイをうたっての中に閉じ込められている。いまだにちゃんとした大人になれたかどうかの自信はない。でも最後はリクオのシンプルな言葉で締めようと思う。
「こうして人生は続くのだ」