こんなはずじゃなかった人生を後悔せず、再スタートとして進む為の自分の棚卸し

※この記事は現在、転職活動中と色々と考えながらやってるので思い出して、書き加え、書き直しする場合があります。

2021年5月16日
追記 
2021年10月22日編集

どうもこんばんは、おはようございます、こんにちは。
諸戸 崎人です。
今回、noteをやるにあたって、私の現在の就職、転職活動に役立てる為、自分史を振り返ります。
未だに自己否定なところが大部分を占めて、暗くなりがちになりますが振り返っていきます。



私は1990年5月11日生まれ。身長は187cm。
足のサイズが30〜30.5。
靴のバリエーションには苦労します。
三重県桑名市生まれです。上に1人、下に1人の女に挟まれてます。

幼少期〜幼稚園時代


とにかく外で遊ぶことが好きすぎた。
とにかく「うるさい」「駄々っ子」、その言葉に合う活発。
地元の遊園地が好きすぎて、冬でもプールやってると思いその用意してしまう。もちろん笑われ怒られた。
とにかく好奇心旺盛。犬に鶏にちょっかい出すような少年だった。
もちろんその仕返しは受けていました。笑
3歳の頃に盲腸になり、入院しても動き回る。エレベーターの使い方は分からず乗って、当時の言い方ではあるが、看護婦の方に怒られたらしい。
 退院しても、迷子になったりと両親に迷惑かけていた。それぐらい活発だった。

幼稚園に通い出すと、友達を作っては遊びに行く。
たとえ自転車で30分掛かっても、母の車に違う用事で同乗してる時に、道の景色、光景と勘で全く不安もなく行ける自信を持って遊びに行っていた。スマホ、カーナビが普及してなくても、道を記憶をする自信はあった。
本当に、「移動時間が長い」<「友達と遊ぶ時間」を大切にしてたと思う。

小学生時代


とにかく駄々を発揮。迷惑を親にかけまくった。後に段々言わなくなり、自分のお小遣いで買うようになった。大体はゲーム、カードゲームに費やした。
小学生になってからは、やりたいことが増え、習い事も増えたし、学級委員など立候補しまくった。なかなか選ばれなかった。
幼稚園時代じゃ習字、ピアノ。小学生でそろばん、空手、野球、と増えた。
小学2年から言葉、悪口に対して、過剰に反応するようなった。
人にとってはたった一言ではあるが、私には軽く石をぶつけられてる気がした。
その過剰反応が3年からしんどくなる。簡単に言えばいじめにあった
単なる人差別であるけども、その格差がひどくなった。言動や光景をよく覚えてるので、つらかった。

今のいじめの度合いではまだマシな方だとは思うが
・トイレの大をする度に覗かれる(毎回ゆっくりさせろよと思った)
・お手製の表彰状をPC授業でこっそり作り、次の朝、トイレの大の事で引き出しの中で表彰されてた(誰でも大するだろと不公平さを一番感じた)
・名前弄りであだ名、または大をするだけあだ名(大する様が擬音がバビバビらしく?バビちゃん)が付く
・トランプの不正作業(大富豪で勝手に切るとか、大富豪になったのにルール無視する)
・身長が高いだけで誇張表現が鬱陶しい
・名前、苗字弄りも鬱陶しい
・野球でミスすると不必要に貶す
・【レアケース】体育で水泳の授業を雨予報だったが、曇りで1(自分だけ):多数=男:女で受けた
(持っていた奴もいたが、意図的に多人数に流れて休んだのもいる)

などと小さい事ではあるけど、個人攻撃されるには十分の威力。
最初はやり返したりしてたが、疲れたのでたまにしか返さなくなった。
公平にやりたいのに「この人は入れたいくない扱い」なんてたくさんある。
接待ゲームとしないと、この人に勝たせないと勝手に怒って面倒臭くなる。
女子の発言にも泣いてた事もあった。
その中、ある意味大人になってるんだなと自分の中で思いながら過ごしてた。

最初は先生との相性も悪く学校に行きたくなかったが、親は欠席することを許さなかった。小学5〜6年生当時、一番いじめも面倒だった年でも2年間同じ先生で先生に勇気や「お前は大丈夫だ」「人の気持ちがわかる良い奴だ」と支えられながら、また自分の中に「死ぬ理由より生きる理由の方が多いからまだ死ねない」と明確な気持ちと多少のいじめの抵抗と良くない出来事の問題化を先生に提案したりして解決する方向にしたりと不登校にならずに行けた。
この2年間はクラス全員が見違えるように変わったと思ってる。反論するようになった子、抵抗するようになった子、自分の行動に疑問を持つようになった子が増えたと思う)
一部の同級生とは今でも薄くではあるが筋トレやSNSで繋がってる。自分にとっていい刺激になっている。

その中でも野球はゲーム以外で熱中してた。3年生の夏に友達とキャッチボールしたのを始め、4年生に地元のチームに入団した。
地元は3つの小学校が集まった野球チーム。友達増えたのもよかった。
メインは最終的にファースト、サブで外野手、キャッチャー、欠員でセカンドを守ることもあった。
入りたて当初は怒られてばっかでだんだん行くのがつらくなった。5年生ではレギュラーから補欠になったが、1学年上がる間で楽しさを知って、より努力するようになり、最終的に代打の切り札やレギュラーの補欠要員になるまではなった。この時から体を大きくするために食べる量を増やした。ご飯をたくさん食べるという古典的なやり方だったので、タンパク質摂取はそんなに増えなかったので思うような体にならなかった。
公式戦でサヨナラヒットを打ったのが一番の思い出。その快感は今でも忘れられない。6年生頃、将来の夢がプロ野球選手になった。

他に交通事故1回とまあまあ大きな怪我を2回ほど。犬に噛まれ皮膚が抉れたのと、座っていて側溝のグレーチング(大きめの網目の鉄)に頭から落ちた。
なんだかんだで卒業まで長いなと小学生の時思ったが、よく卒業できたなと思った。


中学生時代


入学当時はワクワク。人を覚えるのが得意だったので、同学年の名前と顔を全員覚えた。(気持ち悪がられたけど。笑)

1年生の時に姉から「室長になれば、名前覚えられやすいからしてみたら?」その一言で立候補してなった。室長らしくなかったが、変にも持ち上げられ弄られながらやりきった。それ以降と2、3年は弄られるのが鬱陶しかったので書記ばかりしたが、3年の最後ぐらい室長になり卒業式の賞状を受け取りたかったので立候補したが、一騎打ちに負け落選した。

楽しみで入った中学では中間テストが悪く、推測であるが、姉が成績優秀であるが為、両親に物凄く指摘された。
父親には一時期、付きっきり勉強を教えられ、分からないと怒られながら勉強して苦痛でしょうがなかった。
とにかく姉に追いつく為、怒られない為の努力をした結果、
数学、社会、理科は上がったがその他は上がらなかった。
その後、また指摘された結果、地元でも有名な塾に通うことになった
総評すると、偏差値でいう平均値50にはなった。父親には5教科で計400点以上取ってもまだまだ、400点以下だと頑張れ。褒めはなかった。元々プライドが高かったが、顔を伺いすぎて、自分の為というよりも親の為に頑張ってたと思う。国語は中学でわからなくなり思うように上がらなかったが、最初苦手だったの英語は成績が1年生で2→5に上がるくらい得意になった。高校受験は成績が3年生夏以降ずっと下がり、不安はあったが、不安であっても自分を信じて自信しか持たないようにしたが志望校は落ち、滑らないと思っていた為、私立の硬式野球がない軟式野球の高校に進学した。

2年生の頃から友達の影響で深夜にやるアニメにハマった。
無駄に夜更かしすることが当時、格好良かったと自分は思っていたが、アニメ見る前に力つき寝落ちなんて当たり前にあった。1度野球部の先輩と友達のコネで本屋へ漫画巡りの日帰りチャリ旅もやった。


中学生特に楽しかったのが、文化祭と体育祭。特に3年生は楽しかった。
文化祭はしたいことを選択でき、自分は1年生〜3年生まで和太鼓をした。
和太鼓は音がほぼ2つの音。だけど、間が変わるだけで違うものになるのが凄く面白かった。3年生の時、1年生の時に新聞に載ったのが話題になったのか、当時愛知で開催されていた愛・地球博にて演奏する経験があった。
体育祭では学年対抗の全員全脚、全員リレーが特に楽しかった。
皆で何かをやるということが本当に楽しかった。

部活は上下関係が厳しく、最初は打撃、守備の玉拾いやカバーリングや声出しだった。準備運動なしで投げてたから、肩を痛めた。整形外科に行ったら、診断で「野球向いてない肩」と言われショック受けたが、続行した。
(それから、その整形外科の利用はしてません。少し笑いながら診断結果を発言するし、原因に理由がなく当時凄くムカついてました。)

3年生の代が引退になると、2年生に混じって練習に参加するわけだが、小学生時代がベンチだったこともあり、ファーストだとレギュラーを取れないと思い、キャッチャーで入った。知識は凄く浅かったので本当に先輩方に怒られた。それが次第にヒートアップし、指示が完璧でないと愚痴も吐かれ、段々煙たがれるようなったの感じ、注意されたくないので顔を伺うようになり、朝練はほとんど、放課後練はたまに行かなかくなった。同級生も練習をサボるようになって、同級生の出席率は朝、放課後ともに悪くなり、さらに学年としては印象は悪くなった。クラブチームも考えたが、親は塾の送迎に加えて、クラブのお金と送迎が嫌という事なので出来なかった。
2年生になり、顧問の先生に提案されファーストとキャッチャーを入れ替えるようになってからは徐々に出席するようになった。自分達の代になった時は後輩は最初入っていたが、3人ではあるが全員早期退部したので、2年生のみのチームになった。3年生になっても同級生の出席率は変わらなかったので練習試合も少なく、また勝ったことも指の数で足りるくらい。もっとやりたかったと今でも思ってる。投手する経験もあって、だんだんコントロールが定まらなくなった。いわゆるイップス状態をこの時初めて経験した。
筋力アップも励んでいたが、間違ったトレーニングをしたので筋量が偏ったりしたが理想にならなかった。

余談として・・・
幼稚園〜高校生の時の黒歴史としても、今でも物凄く後悔はしてる事だが、
好きな女子がたびたび変わるという謎行動してた。
結果、謎の告白文を送り相手に大いに引かれてフラれた。簡単に言えば、ただの女好きのレッテル貼られてたと思う。推測であるが、根回しで壁がちゃんと固まっていたと思う(笑)。
今でも思ってる事は、高校までの自分もっと落ち着け。そして引かれたと思われる女性の皆さん、自分の気持ちが本当にクソ勘違いで本当にごめんなさい。
(教訓として、しっかり内も外も相手を見る事、1日にしてならずとわかりました・・・)
(後々で自分なりに他の子の分析をしたら、結果として似たような事してる人はいました。終わった事ではあるが、ある意味、他の子の生贄になってよかった。)

高校生時代


中学時代で書いたように、私立高校に通った。落ちたショックは相当受けてたので、なんとなーく通う感じだった。そんな状態もいつの間にか無くなっていった。中学同様、高校の同学年の顔、名前は全部覚えた。
高校生は通学、授業、部活でこんなに疲れるのかと思った。どの場面でも神経質になってた。だんだんしっかり寝ても、昼眠たかった。

あだ名が今でも意味わからないのがあるが、「お父さん(背が高いだけ)」「テキサス(たまたま浮かんだらしい)」、「ルパン(当時は坊主になってる事が多かった)」、「スネ夫(前髪が前に浮いていた)」の時もあった。おかげで「お父さん」と「テキサス」を知っていて、「諸戸崎人」という人を知らない奴もいた。凄くショックだった。
(その時に何度も何で名前を知らんねんと思った。笑)

部活はいろんな部活に目移りしたが、見学には行かず、軟式野球部に体験期間中から入部した。その後、何度かバレー部、バスケ部の同じクラスの子から来ないかと勧誘があったが、雰囲気に馴染めないだろうなぁと思ったと、やるからには本気でやりたいと思ったので、断った。
軟式野球部は雰囲気が本当に良かった。中学時代とは違い、1年生は2、3年生とは別で練習で馴染むのは早かったと思う。その時は本当に楽しかった。
硬式野球とは違って、各高校によって違うが夏まですることはできるが、大半の3年生が春の大会で引退になったので、同時に1、2年主体(数人の3年生は残った)になり、2年生は主将と副主将を、1年生は学年代表を決めた。自分はがむしゃらにやってこうと思い、学年代表に立候補した。だが、顧問の先生のある問いにすぐ答えられなかった。
それは、「学年代表になったら、どうしたい?」と。
その問いが本当に盲点だった。


答えとして「より強いチームにしたい」や「盛り上げていきたい」とあったが、不安を先読みしてしまい、「ない」と発言してしまい、自信を持って答えられなかった。「考え直せ」と言われたので、
仲間に相談して、結果「1年生を纏めていきたい」と答えた。

この時は「何かをするしっかりとした理由」が必要と思ってなかった。「やってみたい」とか「頑張る」とかアバウトな理由でいいと思ってた。


その後、理由について職業選択の授業や、将来展望を塾や進路相談の時などにも先読み不安に襲われながら、凄く悩んだ。小学生の頃から積み上げられた不安がここで邪魔になり始め、発言に自信がなくなった。この頃から、本格的に人の顔を伺うようになったと思う。
野球部の学年代表は自分にとって、何かとメンタルを削いでいくものになった。
連絡網、各練習試合前日の全持ち物チェック、当日の荷物持ち当番の振り分け、当日帰る際の全持ち物チェック、雨の日の練習有無確認などなど。
失敗は何度もやった。道具、荷物忘れ、携帯破損による連絡不届きなど。荷物持ち当番に関しては、寝坊で他の子が来なかったってこともあり、注意されたくないので、より神経質になり、なくても行ってた。また荷物当番のメールを毎度送るのが馬鹿馬鹿しく、よりストレスになり拒否するようになった。その結果、信頼は減った。

勉強は入学テストは上位の方だったが、1年生の学年終わりには上の下くらいの成績。親ももちろん褒めてくれなかった。高校には進学コースと特別進学コースがあり、1年生の進級時にトップ5くらいになると特別進学に上がれるのだが、届かなかった。進級時の進路を理系の国公立大学と定めた。当時はプロ野球選手以外だと人の役に生涯立ちたいと思ってたので、漠然と地球環境改善したいと思ったので、機械設計者にした。

2年になり、坊主を長さ16mmでやった。凄く良かった。それとは別に部活で3年生が引退するまでも、3年生引退までの学年代表としても失敗を重ねた。
3年生が引退して1年当時は主将になろうと思ってたが、不安が勝ってしまい副主将に立候補したが、落選した。
同時にメガネを入学から日常的にかけていたが、夏からコンタクトに変えた。やりやすくなったのは嬉しかった。
選手成績は自分の考えを貫き通し始めたら、よくなり始めた。だが、友達に指摘され修正したら3年の引退までいい成績を残せなかった。途中からレギュラーも落ちた。上級生と下級生の守備連携の違い、また自分と他の認識にズレが生じた時が決定打となった。顧問の先生との相性は良くなかった。
投手やるつもりはなかったが、バッティングピッチャーする機会が増えたら、楽しくて練習試合でも投げさせてもらえるようになった。だが、次第にボールが連続するたびに周りは助けてくれなく、顔を伺うようになってプレッシャーになり、またイップスになった。

勉強も理解したのに、何故か3ヶ月後くらいに模試で解くと全然分からない事が増えた。親に成績を指摘されて、勉強を嫌うようになり、テスト期間に入っても勉強を家以外でせず、図書館で勉強したと嘘ついて、友達とゲーセン行ってた事もあった。
またこの2年生という学年になって予習という言葉、やる理由を覚えた。
だが、家に帰宅しても疲れ過ぎて常に眠気と戦い、負けて朝になって先生に怒られまいと焦りながらもやる事もたびたびあり、しっかり出来なかった。
何とかなるとも思ってた。結果成績はガタ落ちした。

3年生になって、気合を入れる為に坊主を過去最高の長さ6mmにした。クラス写真で指差され笑われてたのを肌で、体全体で感じた。
ストレスではあったが、自分が高校の本来やりたかった事なので悔いはなかった。

この時には自分に勉強に努力してあまり自信がなく、2年生の学年末の模試結果が良くても、成績の急降下を学年末テストで実感。また3年生の最初のテストに最初から全く自信がなくて成績を持続できなかった。でもやれるだけやった。
3年生の思い出は本当に少ないが、京都分散、学校祭、陸上競技会(体育祭みたいなもの)は本当に楽しかった。
学校祭では3年生は露店を出すのだが、自分のクラスはたこ焼き風ホットケーキを出した。
陸上競技会は体育祭の代わりで本当に陸上競技をする。
短距離から長距離、砲丸投げ、走り幅跳び、リレー。
自分は掛け持ちで400mと砲丸投げに出たが、予選2位と決勝落ちになった。
皆と協力して何かをする、という事が本当に楽しかった。

受験が近づくにつれ、勉強に注ぐが親に指摘されるのが嫌なのと、どの環境でも全然集中出来なくて、無理矢理集中するしかなかったので、よりストレスになり、背中に疲労を感じながら藁にもすがる思いで、知識が定着しなくても足掻いた。
志望校はセンターや私立の難関大学から、偏差値低い隣県の大学まで最後の後期まで受けたが、全部落ちた。馬鹿にされたくないというプライドが捨てきれなかった。
父親には「理系はお前に向いていない」と言われて、より落ち込んだ。
最初は浪人しようと思っていたが、1年遅れの入学、また後輩と同じになるという当時の苦痛、プライドを引きずっていたので浪人せず3月ギリギリまでやってた機械CAD設計科のある専門学校に受けて入学した。同時に編入学という入り方がある事も知った。専門学校入学で大体のプライドは捨てれたと思う。
浪人しなかった事は後悔している。

専門学校生時代


また3年前と同じ感覚での入学ではあったが、何故か少しワクワクした。
座学は基本中学高校の授業と一緒だったので、あまり気分は乗らなかった。
だが実技授業が楽しかった。CAD、CAEを使った製図をしてた時は、物が出来る過程、構造がわかり授業にのめりこめた。
資格は色々受けたが、2次元CAD利用技術者試験2級しか取れなかった。

最初はクラスに馴染めなかったが、知ってる話題が出ると自分から話しかけに行った。知らない趣味やクラスメイトの各々の個性に興味が湧き、休みの日には一緒に勉強したり、遊ぶようになった。
受験の開放からか、見たいアニメ全部見る、パソコン購入でオンラインゲーム、ニコニコ動画、ゲーム実況動画、ボカロなどにハマり、次第に新しい事をするようになった。オンラインゲームは次第に生活の優先事項になっていった。

バイトは4回落とされた後に、お酒専門の販売店でスタッフをした。
最初3ヶ月はやることが制限され過ぎてて苦痛だったが、その後する事が増えて、店舗移転作業、新店準備作業にも携わらせてもらい、だんだん楽しくなった。

たまに高校の友達に水上スキーの誘いや草野球やソフトボールの助っ人に参加する事もあった。
草野球は最初は入団予定だったが、バイトが土日と練習試合で投手で出場したが、イップスを再度発症と監督さんに出席しないことに怒られ、合わなくなり、監督さんに「中途半端にするならやめろ」と言われたので辞めた。何故か「やめます」と自分が言ったら、また怒られたのは今でもよくわからなかったので忘れない。笑

2年になった時に、進路を大学編入に定めた。
だが、編入学の塾やその為の勉強を凄くしていたわけでなく、
空手の日に高等専門学校に通って、難関国立に合格した先輩から過去問を頂いて、国公立大学の編入試験も受けたが結果不合格で、専門学校と同じ学園法人の大学に編入学した。

思い返すといつの間にか挑戦することに億劫になっていた。
目に見える努力は資格とバイトしかしなかった。


大学生時代


大学生にはなりたかったので正直嬉しかった。
大学は3年次編入学で大学3年生からスタートになった。

編入学だと単位認定が1年次入学の人と比べ少ないので、授業が忙しかった。
勉強の単位取ることを頑張り、授業終わりのバイトも頑張った。
友達は交流が浅すぎたので今日までの友達をあまり作れなかった。
この時から水曜どうでしょうにハマった。現在も見返す程。

バイトは変わらず、同じとこで続けた。
一部のスキルは社員を上回っていたと思う。特にレジ打ちは自信あった。
セール時のレジ打ちが本当に楽しかった。数回、所属店舗が違う社員が応援や店舗異動関係で自分を知っていたので、他店応援する機会もあった。


3年生冬から就活が始まった。
開始と同時に会社説明会も回った。その為に大学の授業を欠席することも当たり前にあった。ある時に大学の授業欠席理由書の提出が遅かった、また前回の授業の内容を聞きに来ず、先生に大激怒された事があった。次第に言葉に敏感になった。
これをきっかけに心療内科、大学内の心理カウンセラーに通い始めた。自分の意見を言えなくなっていった。
この時から本格的にHSP気質になったと思う。

4年生になっても、就活でのES作り、面接、自己分析を頑張ったが、中々上手く作れず、就職課や身内に聞いても自分のピンとくる物が全然出来なかった。心療内科も通いながら、頑張ったが段々就活を拒否するようになった。
途中から、志望理由を考えるたびに会社に合せてる文章にしてる感が出た時に、嘘しか書いてないだろうか、書く意味ってあるんだろうかと疑問も持ち始めたら、なかなかペンが進まなかった。
後期になって周りが内定貰ってる事を焦り、自分なりに頑張ったが結局、大学卒業まで内定はもらえなかった。

就活(2013年4月)〜契約社員時代(2013年7月〜9月)


卒業まで全然疲労が抜けなかったので、最初の1ヶ月はやりたい事、やりたくなった事をやった。
イラストを描いてみる、知っていた漫画を本格的に買って読む。
5月頃から就活もハローワークを中心にマイペースに再開した。


機械系のアウトソーシング、技術派遣の2社受けて、結果は1社は最終落ち、1社は1次落ち。
やってみた事も自己PRに組み込んでみて、元本を忘れて自分で撮った画像を見せたのだが、興味は多少持ってもらえたのは嬉しかった。
少し日が経ってから、1次落ちした会社から派遣社員の扱い(?)で「良い、または希望の仕事があれば紹介します。」と電話が後日あり、2社落ちて焦りを感じ始めてたので、お願いした。
紹介されたのは、某大手企業2社、大手の下請け1社。
某大手(自動車関係)1社は落ちたが、某大手(住宅メーカー)1社と大手下請け1社の2社は内定をもらった。悩んだ結果、某大手(住宅メーカー)に入社した。
そこは商品評価がメインで希望の仕事ではなかったが、挑戦してみたかったので決めた。


7月から実家を離れ、1人暮らしと同時に某大手(住宅メーカー)に就いた。最初はワクワクと緊張しかなかった。
周りの方は上司を含め、雰囲気はよく感じたが、1週間後にはその雰囲気も真逆に悪く感じた。
作業、仕事は最初の1週間は慣れの為なのか、基本なかった。
最初だけ研修はちょっとだけあったがその後実践的な事はなく、教育は1週間後にぶっつけで作業する事で片付けられた。
入社して最初の1週間は日に日に仕事や研修がないので、「とりあえず仕事をないですか?」と聞いて回れとのことだったので、回ってもらった作業をこなしたが期待通りではなかったのか、良い返事がもらえなかった。より不安が増していった。

1週間が過ぎ、作業が徐々にもらえたが、「こういう内容でやってくれ。」と指示をもらえたが、マニュアルもなく、もちろん仕事のイロハのイも知らない状態でやり方、効率、何もかもわからず、さらに上司にはわからないのにわからない事で怒られる、メモしないと忘れると思ったのでするのだが、「意味ないよ」と行動を否定され、どんどん体調、メンタルが悪くなっていった。
人を覚える事も得意だったのだが、合わなくなった。

8月のお盆明けでの勤務の時に、不調が爆発し頭が回らなくなった。
同時に5分前の事を忘れるようになった。

相談する人が派遣会社の担当の方と心療内科の先生と親しかなく、何度も相談していった。
最終的に、9月始めに心療内科の先生に前回来院した時に、仕事中の自分の身に何が起こってるか、忘れたのでその時起こった事をメモしたものを渡した結果、終業前からの薬とはまた別の処方された薬が増えたのと、
「休職しましょう。」となったが、派遣会社の担当の方にも相談した結果、
最終的に1度、9月末を持って退職することになった。

その時の入社は本当に忙しい時期で、尚且つ上司の方がスモーカーで風邪を引いて、タバコが吸えないストレスなのか、異常な怒り方してたのもタイミングが悪かった。治ってからはそうでもなくなったが、自分の体調は手遅れだった。
この時は本当に会社に行くのが辛過ぎたので、ほっとした


休職期間はとにかく、日帰り出来る範囲でドライブ、外出した。
立ち止まることや、ぼーっとする、無音であると不安が増幅して横になるしか出来なかったので行動した。
ドライブは本当に楽しくて、不安を忘れられた。
退去して実家に戻るので、片付けや引っ越しをした。
選んだアパートはしっかり見て決めたので去るのが寂しかった。
良くも悪くもいい経験になった。
この期間に学んだことが

『100人居て、50人以上俺を嫌ってもそれ以外の人が信頼してくれるならそれでいい。』

上司のこの言葉は、最近になって身に染みてる。
この言葉を聞いて、自分と同じようなポジションから教える立場になるまでの過去を聞いた時は、この方は環境は厳しかったそうで、本当は適度に厳しく、根は優しい人ななんだと思った。怒られてばかりでしたが、最終的にこの方を尊敬しています。

退職後(2013年)〜アルバイトに戻る〜変化


退職後体重測ったら、入社前は90kgがメンタル、体調崩してからご飯食べる量が大幅に減り、80kgになっていた。
たまたま、外出してたのと母親からお使い頼まれたので、学生時代のアルバイト先に行った。当時の店長がまだ在籍されていて、少し話したのちに、今の仕事状況を聞かれ、辞めたことを伝えたら
「またうちに戻る?」
と聞いてきたので、すぐに見つかる気がなかったので
「11月からでいいですか?」
と返答したら、それでOKということなので、11月から働き始めた。

(ちなみに仕事先は酷過ぎない程度の人が常に足りないブラックです。)

11月になり、最初は少しの時間から。当時の身体のメンタル疲労と作業のブランクに不安があったが、学生時代に慣れてた作業だったので、ぶっつけ本番でも出来た。
ブランクから完全復活してから、薬を服用しながらではあるが徐々に不安はなくなって仕事も楽しくなってった。1、2年後には社員登用も視野に入れて働いた。

それから、一時は体調が悪くなり、処方される薬が増えたが、
それはだんだん減った。完全に慣れてきたら、周りの人に気を使えるようになって、他店にも応援勤務をした。応援店舗の飲み会にも参加するようになって、自分で言うのもなんだが、自分の働きぶりは「だいたいの作業は任せられる」と言われて、また店長より上の方にも顔や名前を知るほど広まった。
(飲み会のお酒で失敗したこともあり、周りに迷惑もかけました。笑)

その間に初めて親にも反抗した事があった。
それは父親が家業を手伝って欲しいと言ってきた事。

高校受験終わった後に少し手伝いしたのをきっかけに、毎年4月頃に片付けがあり、たまに手伝ってたのだが、その1度だけは頑な無視をして拒否したが、父親が電話で鬼電をし、シフトを無理矢理変えた事があった。その後、すぐ店に行き、店長に誤りに行った。
拘束感をものすごく感じたのを今でも覚えている。
前から、「今度ここに連れてってやる」とか
「中学卒業したら携帯買ってやる」とか約束事などを破られてきた鬱憤が
爆発して、物(カップラーメンの洗った後の容器)を投げた。

父親は激怒した挙句、実家を出て1人暮らししろって言い放たれたので、
ご注文通りすることに決めた。
2015年3〜5月の事で、この期間は
本当についてない事が連続で起きたので、初めてお祓いにも行った。

物件はある程度条件決め、家から少しだけ離れ、仕事先からも近い物件を見に行きすぐに決めた。
家具の予算もその範囲内で収まり、6月から始めた。
収入はギリギリ生活できる程度で周りの助けも借りながら、続けられた。

その間で市の採用試験や、アパレル系のバイト面接に挑戦したが、
準備不足や相性、その時に限り体調も良くなかったので上手くいかなかった。

特に心に残ることはないので、割愛しますが、2年後に母親の不調をきっかけに実家に戻った。
父親は2年前に言ったことを忘れていたのには、呆れと同時に笑うしかなかった。

その後は仕事や趣味もほとんど変わらない生活を送っていた。
2017年と2018年に1回ずつ大きな体調悪化があったが、それくらいが悪いことだった。その頃から辞めたいと店長に言ったが、答えを濁す返答しかなかった。

ちょっと戻るが、2015年頃受けた健康診断で診断結果が悪く、
肝臓やLDLの項目が悪かった為、定期検診を受けることになった。

改善する為、最初は運動を全くせず、徐々に食事を意識し始め、
処方された薬を服用し、
某通販のダイエット商品や某EMS器具も試したが、大きな変化に至らなかった。
体重は2019年年明けには過去最高の102kgになった。

これでは流石にダメだと思い、2月から休みの日を利用して、
ランニングと体幹トレ、その他に野球を再開したいと思い
野球もバッティングから始めた。

その時の目的は減量。適度な筋力は残しつつ、脂肪を落とすだけ。
落ちても、そんなに体重は減らなかった。


2019年5月になったら、心療内科で処方される薬もなくなった。
さらに、これでは駄目だと思い新規オープンするジムに、
決断するのに1ヶ月掛かったが、入会した。
最初はマシン系とドレッドミルのみでフリーウェイトは怖くて行けなかった。


だが、腐れ縁の男友達の結婚式に出席したのをきっかけに思いっきり変わろうと決意した。結構式は男友達側の受付を1人でやるプレッシャーからか、前日、当日は本当に調子が悪かった。受付の役目が終わったら、凄い充実感があったが、友達の晴れ舞台を見たことや、他に出席してた友達の友達との会話をしてるのを聞いたり見てたら、だんだん自分が置いてかれているのと、出席してる方皆が痩せてるのを見て、嫉妬と29という年齢に焦っていた。

家に戻ってから、筋トレやプロテインについて、少しずつ勉強し始めた。このきっかけと同時に筋トレにもハマっていった。ハマる前はジェットゆうさん、ハマってからは山澤さん、AKIOBLOGさん、山本義徳さん、GENT Fitnessさん、Jinさん、Kanekinさん、ぷろたんさん、など。色々な方の動画を参考にしてた。

結果、メンタルも良くなり、体重も2、3ヶ月の短期間で8kg落ちた。

仕事も嫌悪感が多かったが、やる気が勝るようになった。価値観、考え方も変わった。人個人を嫌わなくなった。(この人は嫌だ→この人のこういうとこは嫌だが、ここは凄い。)自分に無いものをより尊敬するようなった。9、10月頃にAKIOBLOGさんに影響され、朝活ならぬ朝筋トレを年末までの3ヶ月程始めてみたりもした。心療内科の先生も「いい傾向ですね。」と良い評価も頂いた。身体の変化もわかりやすく感じた。定期検診でも、処方される薬がいらなくなるほど良くなった。(最近になって聞きましたが、肝臓、LDLを下げる薬がいらなくなった人は自分くらいだそうで嬉しかった。)

このままいけば、就職、転職活動もいけると思い、
エージェントを利用し再開したが、不安と担当者からのプレッシャーと失敗した当時のフラッシュバックで調子を悪くしたので、また活動を止めた。10社以上複数応募のやり方は自分には合わなかった。

それでも新しいことをしたいと思っていたので、
2019年12月に熱海に1人旅行してみることにした。最初はちょっとだけ緊張があったが、宿泊先、駅、観光スポットが本当に良くて、結果凄く楽しめた。同時に過去に夢で見た場所で、宿泊先、駅、観光スポットがこの旅行自体が正夢だった体験もした。(今振り返っても驚いてる。)もう1度行きたいとも思っている。旅行や美術館巡りまたしたいと思った。

2020年になり、筋トレもいい感じで、体調、モチベーションを1月は保ててたので、他の就職サイトを利用して、再開したが、自分に自信がなく、意見をハッキリとではなくて、うやむや、説明がボヤッとした発言と提出する書類で去年同様悩み過ぎて、進歩にはならなかった。

4月になると、皆さんのご存知の通り、パンデミック。
4月上旬に、不安に駆られ、急に体調を崩し、この年は体調が変わった。
何度か、喉がつっかえる、お腹が痛くなる、あちこち痛みが走り、2、3度病院に通ったが、何にもなかった。自分で調べた結果、自律神経失調症ではないかと、推測した。腑に落ちた。

原因が大体わかって楽になった。
それから、サウナ、瞑想、散歩も試した。原因が大体わかって楽になった。効果は徐々に出て、2020年後半〜現在では、波はあるが良くなった。
その間の8月頃に県外はあまり出る気にならなかったので神社などの観光スポット巡りがメインで伊勢志摩に2泊3日で旅行に出た。(その旅も正夢だったのには驚いてます。笑)
10月頃から年末までに変化をしたかったので、筋トレ関連で
ジムのアルバイトで面接を3回受けたが、全落ちした。
2社はおそらく、時間帯が合わなかったと思うが、全落ちした。最後のとこで、自分について考えさせられる質問があった。

「なぜ、社員ではなくアルバイトで受けたのですか?」

まさか、アルバイトの面接でそんな事聞かれると思ってなかった。
盲点でハッキリと回答できなかった。まさか、アルバイトの面接でそんな事聞かれると思ってなかった。当日のコンディションも受付の近くで開放的な場所と若い受付子達の目線が気になり緊張し、話のまとまりが悪くなり、余計印象が悪くなった。その結果、接客が辛いみたいな結論になってしまったので
「なんで、うちを受けたのですか。」
「接客向いていないと思いますよ。製造業とか探された方がいいと思いますよ。」
「ここで不採用とさして頂きます。」
「たぶん他でもそういうところで落ちたんだと思いますよ。」

3ストライクバッターアウトだった。もうオーバーキル。

しばらく、落ち込んだ。準備不足だった。そこから自分の得意なことはなんだろうかと考えた。

まずは無料で出来る適正診断を片っ端から受けた。そこから自分の得意なことはなんだろうかと考えた。まずは無料で出来る適正診断を片っ端から受けたが、具体的にはピンと来ず、停滞した
そこで思い出したのが、AKIOBLOGさんで見たストレングスファインダー、
クリフトンストレングス。決断が掛かったが、12月に5850円を払い受けた。

クリフトンストレングスがくれたヒント。
クリフトンストレングスにはビックリした。
上位、下位ががほぼ自分に当てはまった。

上位・・・成長促進、最上志向、調和性、慎重さ、共感性
下位・・・活発性、内省、アレンジ、コミュニケーション、戦略性

自分は他人1人1人に興味があり、いろんな人を見る癖がある。
暫定的に人の性格、行動を予測する。
また仕事において手を抜きたくない。
皆と協力して仕事をするのが好きで、発言、行動にはよく考えてする。
最近のニュース、ドラマの大半は、感情移入してしまうので苦手。

下位もこの時や当時直近の3ヶ月程度振り返ると図星。
どれも心当たりがあるものだった。

しばらくは、クリフトンストレングス診断結果をまとめて、
自分がどうするべきかを結果を元に
「やってみること・やること」と「注意すること」洗い出してみた。

実行してみた。忘れる事多々あったが、見返すと調子が良かった日や悪かった日、それぞれにほぼ当てはまった。

2021年3月〜


3月に自分にとって大きな決断をした。
それは次の転職先なしでの仕事の退職。

理由は、これからを生きる為。今の体調を少しでも回復させる為。
そして、諸戸崎人という人物にとって良い環境で働ける場所を見つける為。
今思い返しても、本当に怖くて不安な決断だった。
同時に少し楽しみであるものだった。

店長に直談判し、しっかり話をしたら受け入れてくれた。
後で、顔を知ってる社員や、後日同僚にも打ち明けたら
背中を押してくれた。同時に両親、家族、身近な友達にも話した。
この行動もクリフトンストレングスでまとめて決めた事。

4月から有休消化を利用し、筋トレ、やりたい事をしながら、
無理をしない程度に自分のいろんな身の回りの事を考えながら、
読書や軽く転職準備をし始めた。
辞めたくなった理由、不安になった理由、また去年12月の質問の答え、
様々な事を考えた。

読書はコーチング、心理学、睡眠関係など。

現在(5月16日)


現在は簿記3級の勉強しながら、とりあえず事務職で会社を探している。
転職活動には準備と知らない人と話す度胸が必要不可欠だと
今は知ってる。言葉で自分を表現は未だに苦手。でもやる。
いろんな手を使って引かれてもやる。

軽く一言で自分を紹介するなら、変人です。
好きなものはとことん。好きな番組は何度も見返す。
ルパン三世、水曜どうでしょう。この2つは特に筋トレで垂れ流ししてる。
音楽聴いてリズム乗ってると、叩きたくなる。それは音ゲーの影響・・・。
(運転中だと、ハンドルを軽く指で叩いてノリノリになってる。)

自分に合う、スキルが生きる仕事も良ければやりたいと思ってる。
人と関わって、今、これからを楽しくしていきたい。

HSP気質の自分にとって、仕事環境が良い所があれば、
なお良いがそれは自分を人に教えてからかな。


以前、質問された、「社員ではなく、アルバイトで応募した理由」
それは、
①環境が良いとは限らない、研修期間で見切りをつけれる
②社員とアルバイトでは業務量が違う
③②により、アルバイトの方が最初からの責任、負担は軽い

と答えられる。正解は知らない。

これからの事?
そんな事は今の行動が、実を結んだ時に良きものになると思っている。

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