排除と包摂、どちらがより多くの人を救えるか
最近迷っていることがある。
コミュニティの価値観で望ましくないと判断される人を排除するのか、
それとも、その望ましくなさから狂ったように学び、そのコミュニティにいても良かったと言えるくらい周りもその人も努力し、結果的に包摂の実現を目指すのか、
どちらが良いのかということだ。
優秀じゃない人っているよね
どんなコミュニティにも、そのコミュニティの価値観からすると望ましくない、つまり会社の価値観で「優秀ではない」と言われる人がいる。会社なら「優秀かそうでないか」、社会なら「善良かそうでないか」といったものである。
「優秀さ」なんていうものは文脈依存であると言われている。要するに、あらゆるコミュニティでいつでも優秀な人はおらず、環境が優秀にさせている、とみなせる。
「いやいや、そうはいっても何をやってもできない人っているでしょ!」という思いはよく分かる。ただ、今後200年先まで考えたときに「何が優秀とされるか」は正直わからない。生まれるのが数百年早かっただけかもしれない。
一般に、組織の生産性を規定するのは最低の生産性を持つ人である、などということが言われている。これには思い当たるところもあるし、必ずしもそうは言えない場合もあるのでは、とも思う。定期的にリストラした方が生産性が上がるという人もいれば、そうではないという人もいる。コミュニティの価値観にも依存するのだろうと思われる。
ところで、65歳かそこらまで自分は高い生産性を維持できると思っているの?
高い専門性を持っていれば、年をとっても引く手あまたの業界も当然あると思われる。一方で、IT系の業界では技術の移り変わりも激しく、若い人の方がスピード・精度ともに高いなどということはザラになりつつある。比較的時間がかかると思われる製造業の世界でも経験10年の中堅の方が経験30年のベテランよりも最近の状況と昔の歴史をバランスよく知っていて、経験10年の方が生産性が高い、という状況が見られるように思う(自分の観測範囲では)。
さらに、世の中ではGPT-4に代表される大規模言語モデルによって、高い専門性を持つ人はますます高みに至り、そうでない人との差がますます広がっているように思われる。
経験が必要とされるマネジメントの分野でも、若くして組織開発・経営経験のある人が出てきており、役員や部長はそうした経験のある人にさせたほうが企業として儲かるという状況になってきているように思う。
それを踏まえると、「優秀でないから排除」は将来の自分の首を締めることになっているように思える。いずれ、ほとんどの人が「優秀ではなくなる」からである。
私の観測範囲では、社長と実担当に挟まれた中間管理職の機能が担う役割が高度化し、「実業務で成果を上げたから昇進した人」のスキルではうまく担えなくなっているように見える。これは人の問題もあるし、中間管理職の役割をどう置くかというさらに上位の経営に近い問題でもある。
端的に言うと、2023年現在の状況からすると役員~マネジメント層の大半を30代くらいまで若返らせた方が企業業績が上向く可能性が高いように思われる。
今までの役職者から役職を取り上げることでより儲けられるだろうということだ。
もちろん、これは私の思い上がりなのかもしれない。ただ、あまりに「こんなレベルなら私がやったほうがマシ」と思えることが多く、ほぼ確信になりつつある。
じゃあ、本当にそれをやるのか
現実的には解雇は非常に難しい(会社が潰れかけてないと無理)ので、ベテランから役職を取り上げるということになるが、もし本当にそれをやれば社内は大混乱に陥るだろう。おそらく自殺者も出るだろう。役職は、自分を価値ある存在だと思わせる優しい幻でもある。幻が解かれて、凄惨な現実(自分に何ら価値ある仕事ができないということ)を見せつけられて、再度立ち上がれる人もいれば、そうでない人もいるだろう。それで、会社が儲かるのは「善」なのだろうか。儲かるということは顧客の期待を超えることができた、ということなのだから、間接的に多くのステークホルダーを助ける面がある。大きく企業業績が改善すれば、潰れなくて済んだ取引先があるかもしれない。何もしなければ取引先が潰れ、別の誰かが自殺していたかもしれない。
排除ではなく包摂という道、そしてその止揚
役職者がその役割を果たせないなら、他の誰かが助ければ良い。何度言っても分からないなら、100回でも1000回でも分かるまで言い続ければいい。安易に人を見切るのではなく、その人から自分が学び、活かすことで生産性をプラスにできる、という考え方もある。
「経営者が悪い」「マネジメントが悪い」と言っている人の中で、「あなたは具体的にここが良くない。こうしたらもっと良くなる」と相手を助けるためのフィードバックを(自分が損するリスクを負ってでも)やる人はほとんどいないだろう。だが、それがまさに必要なことなのではないか。
仮にコミュニティでは「優秀ではない」人でも別のコミュニティでは「優秀」かもしれない。今のコミュニティではなぜ優秀ではないとされるのかを率直に伝え、コミュニティに残るか去るかを選んでもらう対話を行う覚悟がどれだけの人にあるのだろう。不快感を伝え、孤立させ、対話なく離職に追い込むのは率直に言って暴力だと思える。相手を助けるために、ここにいないほうがいい(役職を捨てたほうがいい)と言う道もあるだろう。
一方で、残るか去るかではなく、周りがその人から学ぶ、という道もある。見えていなかった視点、今のコミュニティで望ましくないとされていたが、事業環境上望ましくなりつつある価値観に気づくこともあるかもしれない。いずれにしろ、意見の相違、互いにストレスがかかる可能性が高い「対話」を行う必要性が高いと言えるだろう。
排除の対話と包摂の対話のバランスを取ることで、従業員を含む全てのステークホルダーへの価値提供を(極端に偏ることなく)行うことができるのではないか。
問題は、こうした排除と包摂のバランスをどう取るのが最適解なのか、正直わかりかねるというところだ。特に感情や素朴な正義感がそれをかき乱してしまう。世の中の人は一体どうやっているのだろう?というのが冒頭の悩みだ。
まとめに代えて
まとまりのない文章なのでまとめはないが、最近思っていることを書いてみた。なんとなく心は落ち着いたが、いまだ問題は目の前にある。どうしたものか・・。
もし、同じような問題で苦しんでおられる方がいるなら、あなたは一人ではないと伝えたい。ともに悩みましょう。何が善いかは分からなくても、「何が善いかを考え続けること」はきっと善いことでしょうから。