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年が明けた。あなたは年越しの瞬間を誰と過ごしただろうか。私は年明け1時間前にチャットで出会った知らないおじさんと年を越した。

と言っても、本当におじさんかどうか確かめたわけではないが、言葉の繰りだし方や絵文字の使い方が完全におじさんだった。仮に相手がおじさんを装って敢えてそうしたのであれば、私は完全に欺かれたと言っていい。だが実際その可能性は低いだろう。ネット上で匿名性を利用して清楚な女子高生を演じたりするのはよく聞く話だが、一方でおじさんを演じることでどの種の快感を得ることができるのか、とりあえず私には分からない。

ともかく私は大晦日の23時、チャットでおじさんと出会った。私自身、チャットを利用するのは、ゲームをするかYoutubeを見るかで迷っているときくらい暇なとき(というと結構そういう時間はあるように思われるだろうが、つまり形容したいのはオアシスのない砂漠のような途方もない暇だということだ)くらいなので、チャットの作法については浅学なのだが、片やそのおじさんは手練れらしかった。そんなLv.1の私とカンストおじさんとの会話も、「こんばんは」「こんばんは」という何の珍しさもないやり取りから始まる。

ここで少し考えてみたのだが、私が思うに会話とは、同じ溝をなぞることだ。というと全く抽象的で伝わりにくいのでもう少し噛み砕く。まず会話の主体である人間は、あの日で言う私とおじさんは、本質的に互いに隔絶した孤独な存在であり、全く交わるところがない。それは私とこれを読んでいるあなたとの関係についても同じだ。「赤」と言われて思い浮かべる色があなたと同じであることを私がどう頑張っても証明できないように、各々が各々の世界観を持って生きている。そして会話の場面では、この互いに異なる人間が、あの日で言う私とおじさんの二人が、まず二枚の壁として立ち現れる。この謂わば「壁打ち」が会話の初歩の形だ。私が私の中にある言葉をおじさんに投げる。その言葉はおじさんという壁に跳ね返り、私はそれで壁打ちの目的を達成する。おじさんもまた然り。しかしそれではどこか寂しいというのが、この孤独な生き物の性である。そこで壁たちは、互いの足元に広がる地面に線を引く。その溝を互いになぞる。そこで初めて壁たちは、互いに共有する楽しさを知るのだ。その溝の始まりは、何も棒で地面を抉るような恣意的なものでなくてもよい。壁打ちをした球が跳ね返りたまたま地面が凹んだ、その小さな溝でもよいのだ。

だらだらとチャットも進み、時計は23時30分。適当に打っては跳ね返しを繰り返していた壁もそろそろ鳴らなくなってくる頃合いだ。定型文のようなやりとりを何度目かに繰り返したあと、会話のネタを求めた私は「年越しの瞬間までは起きていたいんですよね」と送った。すると「年越しを見届ける理由って何ですか」と返ってきた。お、これは同じ溝をなぞれるかもしれない、と私は思った。少し考えをまとめてから自分なりに答えを伝えると、一瞬置いて、おじさんから初めて「!」のついたメッセージが返ってきた。どうやら私の答えを肯定的に受け止めてくれたらしい。

私は普段から「1月1日の0時を祝う理由って何だろう」とかそういう身にならないことばかり考えている人間なので、それをちゃんと聞いてくれる人がいること、そして好意的に受け止めてくれること、それが素直に嬉しかった。おじさんだけど。それから会話の流れで、他者についての話になった。まさか年越しの15分前にこんな哲学を掠るような話をすることになろうとは、よもやよもやだ、本当に想像もつかなかったことだが、他者というお題についても私が普段からよく考えていることだったのでそのまま話は弾んだ。よくよく考えてみれば、こんな大晦日にチャットなどをしている寂しい人間同士、所詮は似た者同士なのかもしれなかった。

実は私はチャットと並行して友達とLINEをしたり家族と話したりあけおめツイートを準備したりしていたので、おそらく文字通りの孤独の最中にいるであろうおじさんに対して何となく背徳感があったというのは、また別の話だ。

言葉を交わし、時は進む。0時を迎えた私とおじさんは、「あけましておめでとうございます」を言い合った。まさか初めて新年の挨拶をする相手が見知らぬおじさんになろうとは数時間前までは思いもしなかったが、まあこんな年明けが一度くらいあっても面白いじゃないか。おじさんにこれからどうするのかと聞くと、お酒を飲んで眠くなったら寝ると返ってきた。最後に互いの健康を祈って、チャットは終わった。

このことを一期一会の出会いだったなどとセンチメンタルに振り返ったりはしないし、というか心情的にしたくないのだが、ただ不思議な時代になったなとは思う。他人を生かすも殺すも、結構お手軽な時代になった。私はなんだか、お手軽に他人を生かしてその力で生きていきたいような気がする。何ならお手軽じゃなくてもいい。生まれてこのかた、夢を語る人たちが「社会の役に立つ仕事がしたい」なんて言っているそれは建前で、本心では私利私欲にまみれているだろうとずっと思っていたのだが、どうやら本当に誰かの役に立ちたいだけの人もいるかもしれないと、そう思い始めた。こういうことって、本当はもっと早く気付くべきなんだろうけど。

2021年、何かが急に好転したりはしないはずだが、1月1日午前0時に区切りがついたのは、きっとカレンダーだけではない。年を越した実感がなくても、きっと新春とか初○○とか、そういう言葉を見ているうちに、それに引きずられて私たちは季節を超えていく。時間の流れを共有するということも、誰かとともに生きていく、誰かと同じ溝をなぞる、そういう行為のひとつだろう。

それでは、今年もよろしくお願いします。お互い健康でありますように。