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書き殴りコミュニケーション

自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2022 12月6日分の記事です。
本当はもっと違うことを書く予定だったのですが、今日空いた時間にTwitterに書き殴ったことを再編して、遺そうと思います。

バナー画像は Milk outside a bag of milk outside a bag of milk より。


時がゆるやかになっていく。
思考が閉鎖的になっていく。
これこそ、冬というものなのだろう。

たとえば「ほん」ということばがあったとして、それはその日の気分や直近の経験によって、赤色にも青色にも見えるし、意味ががらりと変わってしまう。
これを難しく言えば"認知"なのだろうと思うし、わたしはいつだって、自分の認知が揺らぎ続けていることくらいは 忘れないようにしていなければならない。
今日の認知は明日の認知ではないかもしれない。ということだ。

「今日はこう見えた」。「昨日はああ見えていた」。
ただ今日、こう見えたということだけで、過敏にあれこれと動いてはいけないのかもしれない。
同じく見えるものが一定値まで積み重なったとき、ようやっと重い腰を上げるべきなのかもしれない。

そう考えてみると、昔にはできていなかったことで、強いてできるようになってきていることがあるとすれば、「むやみに動きださないように待つこと」なのかもしれない。
ある意味、これが消極的拒絶なのだろうか。
なんでもアクションを起こして、話しに行って、解決していこうという風にはなりにくくなっている。
もしかすると、これが「大人になる」ということなのだろうか。

最近悉く、「好きです」という言葉しか持っていない自分が嫌だ。
「何故好きなのか」を説明できなくなっているからだ。
そして、ただただ自分が嫌になっていたってどうせ何も生まないというのに、「自分が嫌だ」という処にとどまってしまっている。
こういう事は私に定期的に訪れる。気を付けていかないといけないと思う。
思うばかりで、今もこうして私は動けていない。
エンジンの空ふかしの音が聞こえてくるようだ。

「自分にはこの言葉で伝わる」ということが、相手にも適用されてくれるはずがないのに。
ちゃんと会話をして、語彙を取り落とさないよう、違うことを楽しんでいけなければ、私なぞやっていけないというのに。

私にとってコミュニケーションとは「面の揃っていないルービックキューブを渡される」ようなもの。
受け取ったそれを手に取って、かちゃかちゃ動かしながら面を揃えていくように、自分とは違う考え・語彙・経験・価値観をじっくり見つめて、楽しんでいけるようで在りたい。

最初からていねいに面の揃ったルービックキューブを渡してもらえること(=自分にとって分かりやすいもの)を 当たり前にしてしまったら、話せる人が本当に少なくなってしまう。

しかし、自分の精神のバランスや疲労との兼ね合いを考えた時、受け取ったルービックキューブを泣く泣くそばに置き、「また後で解きたい」と駄々をこねたくなるようなこともあるのかもしれない。
でもこれはやっぱり私の都合だ。苦しい。もっといっぱい、色んな人と話したいのに。

どうせ自分を手放せるのは、死ぬ時だけだ。
愛想をつかすな。愛想をつかしたって意味がないのだから。

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